『利害を超えて現代と向き合う――宗教の役割』(22) 文・小林正弥(千葉大学大学院教授)

明治維新にならった政治変革とは

日本においては英・米・仏における市民革命に相当する「近代的革命」は、これまで起こらなかった。だから、時代に閉塞(へいそく)感が漂うときには、革命にもっとも近い「政治的変革」として明治維新の記憶が呼び起こされて、「維新」という言葉が用いられることが多い。

実は、戦前にも議会政治に反対して軍事的体制を求めるファシズム的運動が起こり、「昭和維新」が主張された。これはもちろん、公共的な議会政治を抑圧しようとするものだった。

最近も、「日本維新の会」がつくられ、新しい政治の担い手として華々しく期待を集めた時期があった。でも、その共同代表(2013-14年)だった石原慎太郎氏は、憲法改正ではなく憲法廃棄を主張していたから、自由民主主義体制の枠内の政治家とは言えない。その点では、戦前の「維新」に似ている。

第19回で述べたように、明治維新の維新たる所以(ゆえん)は、封建体制と専制的政府を打倒したことだ。今の時代でそれに相当する政治的な動きとは、どのようなものになるだろうか。

薩長同盟による倒幕

実は、幕末の公論を求める運動が起こってそこから直接に明治維新が成立したわけではない。前回、西郷隆盛が明治維新の直前(1867年6月)に薩摩藩と土佐藩との盟約(薩土盟約)で上下二院制を支持したと書いたが、これは坂本龍馬らの発想に基づいており、武力倒幕ではなく王政復古・大政奉還と、(京都で設けられる)議会による政治を目指すものだった。横井小楠らの公議政体論(議会制度導入論)に幕臣の勝海舟が賛成して実現を目指し、龍馬は勝の影響でこの議論を持論にしていたのである。

ところが薩土盟約はわずか3カ月で解消されたため、その後は薩長中心の武力倒幕路線が主導して明治維新が実現した。長州藩はもっとも急進的な立場で、すでに幕府と二度にわたって戦っていた。薩摩藩は当初、公武合体の立場で長州藩兵と戦ったので薩長は険悪な仲だったが、龍馬が仲立ちとなって、西郷ら薩摩藩側と長州藩との間で1866年に薩長同盟が結ばれたのである。

この大転換を仲介し、大政奉還後の政治体制構想を提起したことが一因となって、坂本龍馬は志士たちの中で抜きんでた英雄の一人として今でも称(たた)えられている。

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