新・仏典物語――釈尊の弟子たち(34)

王の時代III 覇者

なだらかな稜線(りょうせん)が、夕日に赤く染まり始めました。マガダ国の都・王舎城(おうしゃじょう)を囲む山々は険しくはありませんでしたが、樹海は深く、天然の要害になっていました。その山並みを、マガダ国王アジャータサットゥ(阿闍世=あじゃせ)は、城の執務室から、時を忘れて眺めることがよくありました。動かぬもの、変わらぬものに心が引かれていたのかもしれません。

父を殺し、王位を簒奪(さんだつ)して三十二年が過ぎていました。齢(よわい)も六十を超え、父が死んだ時と同じ年齢に達していました。

父は、この非道の息子に多くのものを遺(のこ)していきました。広大な領土、安定した統治体制、そして、交易でもたらされる莫大(ばくだい)な富。父から受け継いだ、これらの利権をアジャータサットゥは無駄にしませんでした。豊かな富を背景に軍事力を充実させ、近隣諸国を圧倒し、インド北東部に巨大な国家を築き上げたのです。

あと一国、そうつぶやくとアジャータサットゥは、黒い影になり始めた山々に目をやりました。マガダの軍門に下らないのは、もはやアヴァンティ国を残すだけでした。

その征討事業を太子のウダヤバッダに任せてもいいと、アジャータサットゥがふと思った時、扉が開き、人が入ってきました。ウダヤバッダの身辺を警護している男でした。

男は慇懃(いんぎん)に頭を下げると近づいてきました。兵が二人、従っていました。

「太子に何かあったのか」「いえ、その太子の命(めい)で参りました」。男は冷ややかに応えました。目と目が合いました。アジャータサットゥは瞬時に相手の意図を見抜きました。怒りは湧いてきませんでした。男の瞳に、三十二年前の自分の姿を認めたからです。皮肉な笑いで口元がゆがむのを感じました。

「それで、太子は何と」。相手に、太子の命とやらを言わせたくなったのです。「あなたさまを、拘束せよと」。二人の兵が、アジャータサットゥの両脇に動きました。「丁重に計らえ、との太子からの命令にございます」。

執務室を出る時、アジャータサットゥは振り返りました。山の姿は暗い闇に没していました。「悪に身を委ねてはならぬ」。そう釈尊に戒められたのは、父を幽閉した時のことでした。今、暗い廊下を引き立てられていくアジャータサットゥの胸をよぎっていくものがありました。それは、いつも山のように泰然としていた釈尊の姿であり、悲しげな父の顔であり、そして、まもなく王位に就く息子の行く末でした。

(マハーヴァンサより)

※本シリーズでは、人名や地名は一般的に知られている表記を使用するため、パーリ語とサンスクリット語を併用しています