新・仏典物語――釈尊の弟子たち(33)

王の時代II 執政官

軍の動きが、慌ただしさを増していました。ヴァイシャーリー討伐のために大掛かりな準備を始めたのです。

しかし、マガダ国王アジャータサットゥ(阿闍世=あじゃせ)は迷っていました。征討の布告は出したものの、執政のヴァッサカーラが出兵に反対していたからです。もう少し国力が充実してから兵を出しても遅くはない、と言い張るのです。いつも鷹揚(おうよう)に構えているヴァッサカーラにしては珍しいことで、王も有能な民政官の意見を無視することはできませんでした。

王は、釈尊と親交の深いヴァッサカーラを精舎(しょうじゃ)に遣わすことにしました。釈尊にお伺いを立てることにしたのです。

王舎城(おうしゃじょう)の近くにある精舎の一室で、ヴァッサカーラは釈尊と対面しました。

「ヴァイシャーリー軍の、あの精強さは、何に支えられていると思いますか。執政官殿」。釈尊の問いに、ヴァッサカーラは、膨大な軍費を賄うだけの富があること、優れた指揮官に恵まれていること、兵が鍛えられていることなどを指摘しました。釈尊はうなずきながら聞いていましたが、ヴァッサカーラの話が終わると、ぽつりと言いました。

「彼らはヴァイシャーリーをこよなく愛し、誇りに思っているからですよ」

そして、釈尊は、その理由として、民が政治に参画できること、法令が民意を考慮して制定されること、政策が合議制で決定されることを挙げました。「これらのことが行われている限り、ヴァイシャーリーの攻略は難しいでしょう。王は軍を相手にするだけでなく、彼らの心と闘わなければならないからです」。釈尊は言葉を続けました。「人の心を征服することは、容易ではありません」。

ヴァッサカーラは平伏し、釈尊の言葉を王に伝えることを告げました。顔を伏せたヴァッサカーラの眼が冷たく光りました。釈尊の言葉の中にヴァイシャーリー攻略の手掛かりをつかんだのです。それは、謀略でヴァイシャーリーを分裂させることでした。再び、面を上げたヴァッサカーラの顔には、いつもの愛想の良さが浮かんでいました。

立ち上がり、部屋を出ていくヴァッサカーラの背中に釈尊が声を掛けてきました。「両国が親交を深め、互いに栄える道はないものかの。執政官殿」。ヴァッサカーラは足を止め、ゆっくり振り返ると、恭しく頭(こうべ)を垂れました。

(大般涅槃経より)

※本シリーズでは、人名や地名は一般的に知られている表記を使用するため、パーリ語とサンスクリット語を併用しています