新・仏典物語――釈尊の弟子たち(15)

仏弟子・象のダナパーラ

城の通りに足を一歩踏み入れるやいなや、ダナパーラは全速で駆け出しました。太い足。舞い上がる砂塵(さじん)。突然の地響きに、驚き逃げ惑う人間の姿を、ダナパーラは目の端に捉えていました。前方に僧の一団。その距離が見る間に詰まりました。僧の集団が崩れ出しました。一人、また一人と僧侶が逃げ出し始めたのです。残ったのは二人だけでした。人間たちがブッダと呼んでいる男とその侍者。ダナパーラが狙っているのは、ブッダの方でした。

二人の姿が間近に迫ってきました。ブッダの脇を駆け抜ける瞬間、ダナパーラは長い鼻を振り下ろしました。右の耳上から左斜め下。渾身(こんしん)の一撃でした。しかし、手応えはありませんでした。ダナパーラは心の中でうめきました。これまで、ダナパーラの一撃をかわした人間などいなかったからです。振り向くと男が立っていました。間髪を入れず、左下から右斜め上に鼻をすり上げました。今度も空を切りました。

男と向き合いました。長い対峙(たいじ)になりました。真っすぐ見つめてくる男の瞳は茫洋(ぼうよう)としていました。恐れも害意も伝わってきませんでした。ただ悲しみのようなものが漂っていました。それは、何かを訴えてくるようでした。<象は象らしく生きていけばいい。人間におもねることもなく、自由に悠々とこの大地を歩いたらどうだ。ダナパーラよ、おまえは、おまえらしく堂々と生きていけ>。

人間からこのように語り掛けられたのは初めてでした。これまで、ダナパーラに近づいてきた全ての人間は、ダナパーラの力を利用しようとするだけでした。彼らが言うように、隣国との戦争で敵兵を蹴散らせば、それ相応の待遇を受けました。食べ物はふんだんに与えられ、扱いも丁寧でした。しかし、ただそれだけでした。

<さあ、大地に帰ろう。インドの大地へ>。仲間の象たちの声が聞こえてくるようでした。その声に促されるように、ダナパーラは釈尊の後について歩き始めました。城門を出ると、ダナパーラの目の前には、果てしないインドの原野が広がっていました。

城塔から一人の男が一部始終を見ていました。刺すようなまなざし。ダナパーラを使い釈尊の命を奪おうとした、デーヴァダッタ(提婆達多=だいばだった)の憎しみに燃えた眼でした。

(有部毘奈耶破僧事より)

※本シリーズでは、人名や地名は一般的に知られている表記を使用するため、パーリ語とサンスクリット語を併用しています