新・仏典物語――釈尊の弟子たち(14)

刺客

自分の息遣いさえ聞こえてきそうだ、そう若者は思いました。林の中に身を潜め、一人の沙門(しゃもん)の動きを注視しているのでした。若者は弓を携え、剣を佩(は)いていました。沙門はやがて葉の茂った樹木の下に座し、瞑想(めいそう)に入りました。それを見定めると若者は腰の箙(えびら)から矢を引き抜きました。

おまえにある男を消してもらいたい――アジャータサットゥ太子(阿闍世=あじゃせ)に、そう命じられたのは数日前のことでした。若者は刺客として太子に雇われていたのです。剣と弓の扱いには天性のものがありました。「殺す相手の名はゴータマ。今は聖者としてブッダと呼ばれている」と太子の傍らに立っていた僧侶が口を開きました。その口調は妬(ねた)みがにじみ出ていました。太子と僧の間でどのような取引があったのか、若者にはどうでもいいことでした。邪魔な者を消すために人を利用する権力者の身勝手さに、若者は倦(う)みはじめていたのです。若者は太子を見据え、静かに言いました。「これが最後の仕事だ」。

矢を射掛けるには、ほどよい距離でした。こちらの動きを気取られず、しかも誤たず相手の胸板を射抜くことができる。若者は弓を構え矢をつがえました。心気を研ぎ澄まし、ゆっくりと弓を引き絞りました。研ぎ澄まされた鏃(やじり)。樹下の沙門。それが重なった瞬間、何かが若者の体を押さえ込んできました。周囲の空気がねばりついてくるようでした。全身から汗が噴き出してきました。若者は大きく息を吐き、構えを解きました。そして、崩れるようにしゃがみ込んでしまいました。

<あの男を、殺すことはできないのか。隙はあり過ぎるほどある。何かに身構えるということなど、この男にはなさそうだ。隙があり過ぎて隙がない、そういうことか>。このような男を相手にするのは初めてでした。

かすかな気配に打たれ、若者は顔を上げました。目の前に沙門が立っていました。その姿が巌(いわお)のようにのしかかってくるようでした。剣に手をかけることもできませんでした。強い。それも、剣の強さなどとは別ものであることを、刺客として何度も死地をくぐり抜けてきた若者は瞬時に感じ取りました。

「人を殺(あや)める者は、やがて殺される。己が命を粗末にしてはならぬ」。そう言い残し立ち去る沙門の姿をぼうぜんと若者は見送りました。頭上で鋭く鳥が啼(な)きました。弾かれたように若者は飛び起き駆け出しました。足は沙門の後を追っていました。

(律蔵小品より)

※本シリーズでは、人名や地名は一般的に知られている表記を使用するため、パーリ語とサンスクリット語を併用しています