新・仏典物語――釈尊の弟子たち(7)

ヒマラヤの山々も、泣いている

空が白みはじめると、雪に覆われたヒマラヤの峰々が、その姿を現し出しました。麓に広がる森の緑は、朝の光を受け、徐々に鮮やかさを増していきます。そうしたゆるやかな時の流れを、マンダーキニー湖の湖面は、静かに映し出していました。そして今、湖畔にある草庵で、一人の老修行者がひっそりと息をひきとろうとしていました。

12年前に、この湖畔に移ってくるまで、彼は釈尊のもとでサーリプッタ(舎利弗)やモッガラーナ(目連)とともに後進の指導に当たっていました。内面からにじみでてくる彼の謙虚さは、多くの人をひきつけました。その人望は、ときとして、サーリプッタやモッガラーナをしのぐほどでした。しかし、そのことを彼は心の中で恥じていました。教団の将来を担うのは、サーリプッタやモッガラーナであることを誰よりも理解していたからです。

彼は教団を離れることを釈尊に申し出て、許されました。草庵での生活は静かなものでしたが、寂しいものではありませんでした。森に住む象たちと心を通わすことができたからです。象たちが身の回りの世話をしてくれ、食べ物も運んできてくれました。

残された命はわずかであることを覚(さと)った彼は、別れの言葉を述べるために、12年ぶりに釈尊のもとを訪れ、再びマンダーキニーの湖畔に戻って来ました。これまで世話をしてくれた象たちに、自分の最期を看取ってもらいたかったからです。

彼の死を知った象たちは、深い悲しみに包まれました。その悲哀に満ちた咆哮(ほうこう)は、ヒマラヤの森や峰々にこだましていました。まるで、ヒマラヤの山全体が泣いているようでした。

遺骨は、竹林精舎(ちくりんしょうじゃ)に滞在していた釈尊に届けられました。その遺骨を釈尊は、自らの手で手厚く埋葬されました。釈尊にとって彼は忘れることのできない大切な弟子の一人でした。釈尊が悟った真理を一番最初に理解したのが、彼だったからです。

そのために、彼はこう呼ばれ、釈尊はじめ同僚の修行僧たちから親しまれました。

「アンニャー(悟りを開いた)・コンダンニャ(憍陳如)」
(相応部経典註より)

※本シリーズでは、人名や地名は一般的に知られている表記を使用するため、パーリ語とサンスクリット語を併用しています

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