心の悠遠――現代社会と瞑想(15) 写真・文 松原正樹(臨済宗妙心寺派佛母寺住職)

川崎教会の発足60周年記念式典で講演に立った松原師。祖父・松原泰道和尚の言葉を紹介し、今を真剣に生きる重要性を語った

一大事とは、今日只今の心なり

令和元年9月29日、立正佼成会川崎教会の発足60周年記念式典に参列させて頂き、『一大事とは、今日只(ただ)今の心なり』というテーマで話をさせて頂いた。

この言葉は元来、臨済宗中興の祖と称される江戸中期の禅僧・白隠禅師の師匠である道鏡慧端(えたん)禅師(正受老人:1642―1721)に由来する(原版は「とは」は「と申すは」)。正受老人はこの言葉の後に、「それをおろそかにして翌日あることなし」と続ける。これは正受老人の「一日暮らし」という教えの一番根本のところであるが、その補足を以下のように述べている。

「一日は、千年万年の初めであり、その初めの一日をよく暮らすようにしていると、その日は充実したものとなり、それは一生をよく暮らすことにつながるからだ。ところが人間というものは、とかく翌日のことを考えて、ああでもないこうでもないと、まだ先のことについて取り越し苦労をして、一日をむだに過ごしてしまい、その日のことを怠りがちになる。明日もあるから今日はこれでいいだろう、という毎日が続いていってしまうと、今日の一日という意識もなくなってしまい、ついあてもない先のことを頼みとして、その日の自分自身の緊張感がなくなってしまう。明日やればいいと言っても、その明日があるかどうかは誰にもわからない。人の命は、はかないものだからこそ、今日一日の生活はどうなってもいいということではなく、今日の一日を精一杯つとめ励むべきなのだ。(中略)どんなことでも、今日一日が自分の生涯だという気持ちで過ごせば、無意味な時間を過ごすことなく、充実した一日を過ごすことができる。(中略)世の中すべての人に、先のことを考えてみることは、誰にもあることだ。しかし、今ここにある、この一刻の、この今を、どう生きるか、どう暮らすかを考えている人は少ない。」(『正受老人物語』=飯山市教育委員会発行、臨済宗妙心寺派龍雲寺ウェブサイトより)

正受老人は、「一日は、千年万年の初め」であるから、まずは一日を大事に、今日という一日、より正確には、「今」を精いっぱい生きることが一番大事と教える。現在、住職をしている佛母寺は私で第四世である。開山の山田無文老師からつながる法縁と、先人たちが遺(のこ)されてきた伝統、歴史を受け継いで未来へつなげる懸け橋になることが私の役割。正受老人の「一大事とは、今日只今の心なり」は、そんな私が大事にしている言葉だ。

泰道和尚が揮ごうした書「一大事とは、今日只今の心なり」

ここで「明日」とか「未来」という表現が出てくるが、つまるところ、人生は今、今の連続でしかない。われわれは何かと過去にとらわれ、未来にとらわれ、常に苦悩している。苦悩するのは、コントロールの不可能なことを可能にしようとするからであり、過去も未来もコントロールは不可能である。私たちは、一瞬、一瞬の「今」という現在こそ、私たちが唯一コントロールできるものであること、さらには現在というものが、過去や未来をも変えることができることを忘れているのだ。読者の皆さんにも、「過去を変えてくれた今」という経験が必ずあるだろう。

祖父・松原泰道和尚は私に、「人生は今、今の連続。今の中に過去が入っていて、今の中から未来が導かれる。だから、今、今、今だ」と教えた。この「今」という現在をよく見ていくと、「時を止めることはできない」「あらゆる存在と現象は刻々と変化していく」という「無常」の真理と、「あらゆるものとは全て一期一会」という二つの真理の中で生かされていることに、誰もが気づかされるであろう。

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