心の悠遠――現代社会と瞑想(15) 写真・文 松原正樹(臨済宗妙心寺派佛母寺住職)

京都・霊雲院にある無文老師の書「福 わしゃいらん」(写真=筆者提供)

福 わしゃいらん

釈尊は「人生は苦である」と説いた。白隠は「南無地獄大菩薩」と言った。白隠は、地獄は何か別の次元にあるのではなく、むしろ人生がそのまま地獄であるということを言ったのだろう。釈尊と白隠の言葉を合わせれば、「人生は地獄である」となる。ただ、文字通りの解釈にはならない。人生は今、今の連続である。白隠にとって、この人生がそのまま「地獄」であるが、それはまた「浄土」でもあるということであろう。それはつまり、人生というコインの両側面が地獄と浄土で表裏一体ということだ。だから、白隠は『坐禅和讃』という自身が書かれたお経の最後で、「当所即(すなわ)ち蓮華国」と教えた。白隠の「南無地獄大菩薩」は、さまざまに苦しみながら、人々を助けていく、そういう誓願を持つ菩薩になるために、また人生の「今」を生き抜くためにも、地獄でも生き抜く気概を持つことが必要であると私に教える。

この「今」の連続の中で生かされる「私」は、その身も心も、さまざまな縁が重なりあって今、存在しているのである。縁によって生かされているのである。この縁を「理由」と置き換えれば、世の中のあらゆる存在と現象はそうなる理由を持っているということだ。一人ひとりが頂く縁にただ感謝し、今、ここに自分があることにただ感謝し、ただただ縁に従いながら、生きることができたら、誰もが今を豊かに生き抜くことができるであろう。この「縁に従う」ことに徹底するならば、全てがただただ有り難く思えるようになる。「縁に従う」という無心の働きというものはどこから出てくるかというと、「かたよらない心、こだわらない心、とらわれない心」という三つの心を耕すことにほかならない。

昨年10月24日、京都・妙心寺山内の霊雲院で、山田無文老師の三十三回忌法要が行われた。その時、私の目の前に掛けられていた無文老師の「福 わしゃいらん」という書に引きつけられた。文字通りに読めば、「わしゃ、福はいらんから、皆さんに差し上げる」という意味である。六波羅蜜(ろくはらみつ)の一つである「布施」、つまり「施し」の行について表したものとも考えられるであろう。

しかし、もう一歩踏み込むならば、「私たちは本来すでに幸福である」と教えてくださっているのではないか。全ての人は尊く、全ての人が本来仏であるという、純粋な人間性ともいえる仏性という名の「幸福」を持っている。白隠は『坐禅和讃』を「この身即ち仏なり」と言って終える。私たちは何かと外に向かって幸福を探す傾向が強いが、内に向かって幸福を探さなければいけない。このことは、幸せが感謝の気持ちを生むのではなく、感謝の気持ちが幸せな気持ちを生むことからも、よく分かるであろう。

また、自分の心が平和にならなければ、世界を平和にすることなどできるはずがない。内面的な問題を解決しないで、社会の外面的な問題ばかりに関心を寄せて扱っていても、諸問題の解決は尽きないのである。法華経が教えるように、仏性を開発することが、みんなが救われていく道である。

泰道和尚は「よき人生は日々の丹精にある」を人生訓にされていた。これは正受老人の「一日暮らし」の教えにもつながる。一日一日を大切に、それが明日につながり、その繰り返しが人生を豊かなものにする。まずは、今日である。今、今である。ただただ、縁に感謝し、今ここに生かされていることに感謝し、縁に従い、「一日暮らし」をすることが、一番、人間にとって大事で幸せなことだと思う。

泰道和尚が揮ごうした書「よき人生は日々の丹精にある」

プロフィル

まつばら・まさき 1973年、東京都生まれ。『般若心経入門』(祥伝社黄金文庫)の著者で名僧の松原泰道師を祖父に、松原哲明師を父に持つ。現在、米・コーネル大学東アジア研究所研究員、ブラウン大学瞑想学研究員を務める。千葉・富津市の臨済宗妙心寺派佛母寺住職。米国と日本を行き来しながら、国内外への仏教伝道活動を広く実施している。著書に『心配事がスッと消える禅の習慣』(アスコム)。