清水寺に伝わる「おもてなし」の心(5) 写真・文 大西英玄(北法相宗音羽山清水寺執事補)
出会いの尊さ
「客人を迎えるとは何か」。別に問答でもなんでもない。端的に言えば、自分は相手と出会い、相手は自分と出会うということだ。特に後者の意識が往々にして欠けていることがある。いずれにしても、この相互交流をより有意義にするため、出会いの尊さを自覚するとともに、人と人が向き合って「間(ま)」ができて「人間」となる訳で、その「間」の智慧(ちえ)を知るべきだと考える。
一つ数字を示そう。「5023650000000000000000000000分の1(5023杼=じょ=6500垓=がい=分の1)」。さまざまな分析方法があるだろうが、これが人と人が出会う確率と聞く。もしあなたにパートナーがいるとしたら、理想の相手であるその方と出会う可能性は、上記の数字に「0.000000034」を掛けた確率になるそうだ。前回、「同席対面五百生(ごひゃくしょう)」という言葉を紹介し、出会う相手は私の「仏様」であると伝えたが、出会いについてもう少し追記することから始めたい。
もともと物にこだわりは無い方だが、一つ大切にしている物がある。それは父親から譲り受けた古い腕時計だ。父が結婚した際に仲人の方から頂いたらしい。以来、40年以上大切にしてきた重みと、それを子に託す親の気持ちは有り難いものだ。その時計がしばらく前に故障してしまい、修理屋に足を運んだ。さすがの精密機械と言えばそれまでだが、本当に小さいねじ一つの不具合が原因だった。
当然のことながら時計は時を知らせるものだ。ところが長針、短針、文字盤、ベルト、ねじ等がバラバラに分解されると、同じ部品がそのまま全てあっても、時を伝えることはもうできない。誰かから、「ここに時計を作るのに十分な部品と工具が揃(そろ)っているので、これらを自由に使って、今何時か知らせてくれ」と頼まれても、専門家でもない限り不可能だ。つまり、時計を作り、時を知るためには最低二つの要素が必要である。十分な部品や工具と、それらを正しく組み立てる知識や技術だ。
時折使う例えだが、我々はある意味、時計のようなものだと思う。我々を時計と定義するならば、構成している“部品”は何か。それはこれまでに出会った全ての人であり、触れた物であり、食べた物や飲んだ物であり、行った場所であり、過ごした時間であり、思い出や経験であり、包まれている森羅万象であり、ご先祖様である。そして、それらの部品を正しく組み合わせてくれているものが「縁」の働きだ。
そう考えるならば、時計はねじ一つの不具合にて故障してしまうのだから、たった一人との出会いがなければ、自身は“故障”していたかもしれない。つまり、相手がどうであれ、出会う全ての人が自身にとって必要不可欠であり、自分もまた相手にとってそういう存在であるはずだ。
一方で、出会いの数が増えて忙しくなると、一期一会の尊さを自覚し続けることが難しくなる。誰かと会っていても、携帯電話の着信やメールの受信、次の用事が気になったりして、身も心もなかなかその場に集中できない。それは「次の機会」があるという想定があるからだろう。しかし、我々が漠然と想像する「次」が本当にあるかどうかは、本来、誰にも分からないはずだ。私という時計を動かしているねじは、他のどんな代用品でも良いはずがないのだから、出会う全ての相手は、自身にとって代えの利かない必須なものであるという自覚を忘れずにいたい。