清水寺に伝わる「おもてなし」の心(5) 写真・文 大西英玄(北法相宗音羽山清水寺執事補)

日本建築特有の「床の間」。一見、無駄にも思える「間」が、室内にゆとりと癒やしを醸成する(成就院客殿内)

四つの間

かくも尊い人との出会い――なればこそ、人と人との「間」もまた重要であり、個人的に四つの間を大切にしている。一つは「間を待つ」ことだ。参拝者を迎える際には、今でもかなり事前にシミュレーションをする。もちろん想定通り進むことはまずない。帰山して間もなく、まだ慣れていない頃は自身の想定の中で、各所で話す台詞(せりふ)の一言一句まで記憶して臨んだことも多くあった。その時に学んだのが「間を待つ」姿勢だ。

我々は、当たり前だが機械ではない。相手をこちらが迎えて案内する手前、こちらから話すことが多くなるのはある程度仕方がないし、そうした関係性を求める相手もいる。しかし、あくまでも理想は対話である。話し続けることはあっても、それが過ぎてはならない。自分にとって馴染(なじ)みの場であっても、相手にとってはそうではない。つまり相手はその場を咀嚼(そしゃく)する、味わう、見えない背景に思いを巡らす時間が必要であり、この「間を待つ」勇気が大切だ。自分に自信がないと、どうしても無音の間を自身の言葉で埋めようとしてしまいがちだが、間は本来、相手により深い理解を促し、自他共に心を調(ととの)える時になり得ると考える。

二つ目は「間を保つ」である。同じく“慣れ”がない頃、自他の距離感が近いことが相手の心地よさに通じるものと信じ、親しみのある和尚の姿を過度に表現したことがあった。今でもはっきり覚えているが、一組の海外からの参拝者を案内した後、紹介して頂いた方より、彼らの感想を教えてもらったことがある。それは「良いひとときではあったが、もう少し厳かな和尚を期待していた」というものだった。

つまり距離感が遠ければ良い訳でもないが、近いことが正解ではない。短時間で測ることはとても難しいものの、相手にとって心地よい距離感をもって初めて正解となる。この気づきは、その後の自分にとって大きな糧となった。先の寄稿にて、「どこまでも相手に寄り添う大切さ」を共有したが、それは自他の距離感をできるだけ詰めることではなく、心地よい距離感を測り、保つよう努めることだ。

北総門近くの弁天堂前で勤行する大西師。同寺の僧職は決められた日の朝に諸堂に参拝する

三つ目は「間を彩る」ことだ。経験を重ねていくと、初対面だけでなく再会の機会もおのずと増えてくる。「間」とは直接顔を合わせている時だけでない。言い換えるならば、もてなしの現場とは、実際に人を迎えている時だけではないのだ。

例えば、手紙を書く、心を寄せる、相手の無事や安心を願うなど、会っていない時にも、互いの間を彩り、大切にする実践は多々あるのだ。ここまで行動して初めて、本当の意味で相手をもてなすと言えるのではなかろうか。

結びは「間をつくる」。最短で結果を表現することが良しとされる現代社会において、間を意識することは難しい。しかし、日本は伝統的にも間の文化を大切にしてきた。間合い、間違い、間取り、間に合う、合間、手間、床の間等の日常用語から垣間見えるだけでなく、日本画や書道、伝統芸能などでも余白、間を重要とし、「不足の美」とも表現され、間を美意識として昇華してきた背景がある。そこまでではないにしても、もてなしを一つの行とする者は、周りから与えられるのではなく、自らが周りに心の一呼吸の「間」を与えるような存在であるべきだ。
(写真は全て、筆者提供)

プロフィル

おおにし・えいげん 1978年、京都府生まれ。2000年に関西大学社会学部卒業後、米国に留学。高野山での加行を経て、05年に清水寺に帰山し、僧職を勤める。13年に成就院住職に就任。14年に世界宗教者平和会議(WCRP/RfP)日本委員会青年部会幹事、19年に同部会副幹事長に就いた。現在、清水寺の執事補として、山内外の法務を勤める。日々の仏事とともに、大衆庶民信仰の入口を構築、観光客と仏様の橋渡しを命題とし、開かれた寺としての可能性を模索している。