気づきを楽しむ――タイの大地で深呼吸(12) 写真・文 浦崎雅代(翻訳家)

人間は、生まれた直後には、五蘊が完全に揃(そろ)ってはいない。生まれてすぐの赤ちゃんは、ほぼ「色(肉体・物質)」と「受(感受)」のみ。受は、快と不快とに分かれるので、体に不快が生じれば泣くし、快が生じれば泣きやむ。

もう少し成長してくると、この人はお母さん、あの人はお父さんと、「想(表象作用)」が発達してくる。親が犬を指して「これはなあに?」と子に問い掛け、子供が「ワンワン」と答えると親は当然喜ぶ。そうしたフィードバックを何度も繰り返し、<これは◯◯だな>と感じて、子供は「想」を発達させていく。

さらに、それらを踏まえて、あれをしたい、これをしたいという意志、すなわち「行」が出てくるのだ。息子はトラックが大好きなので、これらと遊ぶのも行のなせる技だ。そして先に挙げた例では、「お父さんに叱られたくない」という自我が出てきて、息子が自ら話題を変えたのも、行が発達した証しと見る。反抗期は、まさに行が急激に発達を遂げる時期と言えるだろう。

五蘊に分けて子供を見守ることのメリット。それは、多角的な視点でわが子と向き合う力を鍛えることであり、子供をアバウトに一つの塊と見て、良い子、悪い子と単純に決めつけないようになれることだと思う。人間の複雑さは、生を受けた時からすでに広がり始めているのだ。その複雑さを受けとめて学びとする大切さ――五蘊というパーツに分けた仏教目線の子育ては、そのまま自分自身を育てることになると、私は感じている。

プロフィル

うらさき・まさよ 翻訳家。1972年、沖縄県生まれ。東京工業大学大学院博士課程修了。大学在学中からタイ仏教や開発僧について研究し、その後タイのチュラロンコン大学に留学した。現在はタイ東北部ナコンラーチャシーマー県でタイ人の夫と息子の3人で生活している。note(https://note.mu/urasakimasayo)にて毎朝タイ仏教の説法を翻訳し発信している。