気づきを楽しむ――タイの大地で深呼吸(7) 写真・文 浦崎雅代(翻訳家)

タイの「いただきます」は、自己チェックリスト

手を合わせて、「いただきます!」「ごちそうさまでした!」。

日本の食卓でなじみのあるこのすてきな習慣。残念ながらタイでは見られない。タイでは仏教を信仰する人が多いのだけれど、日本語の「いただきます」や「ごちそうさま」に相当する言葉はない。私という存在が生きるために、他の動植物の生命をいただく。命の連鎖を思い起こさせる“いただきます”――この意味を丁寧にかみしめると、謙虚な気持ちが自然と湧いてくる。

しかし、実はタイにもタイなりの「いただきます」がある。それは僧侶が食前に唱える短いお経だ。まずは、その内容を紹介しよう。

私たちはいただいたこの食について、よく省察いたします
楽しみのために食べるのではなく
体力自慢のために食べるのではなく
この身を飾り立てるために食べるのではなく
見栄を張るために食べるのではなく
ただこの体を健やかに保たせるために、食します
この体に生ずる苦しみを減らすために、食します
善なる行いをなす体の支えとなるために、食します
古い感受の苦しみである飢えの苦しみをケアし
新しい感受の苦しみを生じさせないよう、食します
そのように食することによって
この身を活用し、害がなく
幸せに導かれる生き方を歩んでいきます
(※訳責筆者)

この一節は、タイの僧侶がよりどころとしている『南伝大蔵経』の中にある。分かりやすく意訳してみたが、要は食べる際の「自分チェックリスト」だ。まず、これから食べようとする目の前の食をどんな心の“姿勢”で食べるのかを確認する。そして、ひと噛(か)みひと噛みを、気づきを持っていただくのが僧侶の食のスタイルだ。

食の一切を在家の施しに委ね、戒(かい)を守る僧侶が唱えるものなので、在家の私たちの意識とは違うだろう。食を楽しみとしている人もいるだろうから、楽しみを否定されているように感じるかもしれない。

しかし私は、このお経の意味を知った時、「いただきます」と口では言い、謙虚なつもりになっていながら、実際にはおいしさや楽しみだけを求めて食べていたのではないかと反省の気持ちが生じた。

好きな時に、好きなものを、好きなだけ食べる――そんな食の姿に気づかず、楽しさだけを追い求めて食べるなら、欲望に終わりはない。いただきますの精神とは逆のことを、私はしてしまっているのではないだろうか……。そんな思いがよぎった。

僧侶のような完全な自己チェックは難しい。しかしほんの少しの時間、「私は今、何のために食べるのだろう?」と振り返るタイの“いただきます”。

それを、日常にも取り入れていきたいと思う。

プロフィル

うらさき・まさよ 翻訳家。1972年、沖縄生まれ。東京工業大学大学院博士課程修了。大学在学中からタイ仏教や開発僧について研究し、その後タイのチュラロンコン大学に留学した。現在はタイ東北部ナコンラーチャシーマー県でタイ人の夫と息子の3人で生活している。note(https://note.mu/urasakimasayo)にて毎朝タイ仏教の説法を翻訳し発信している。