気づきを楽しむ――タイの大地で深呼吸(6) 写真・文 浦崎雅代(翻訳家)

与えない、おくりもの

私は今、タイ仏教の翻訳をしているが、タイを訪れる前から仏教には興味があった。それには二つ理由がある。母が熱心な仏教徒であること、警察官だった父が交通事故で殉職したことだ。私が2歳の頃だった。この環境と体験がなかったら、おそらく私は、今タイにいない。

仏教には多くの教えがある。ただ私にとって、言葉は知っていたが、タイに来て初めて「そうだったのか!」と気づく教えも少なくない。その一つが、おくりものにまつわる教えである。

仏教におけるおくりもの、それは布施。布施というと、お金や物が連想されるがそれだけではない。タイでよく語られるのは「財施・法施・無畏施」の三施だ。

財施(ワットゥターン)は、お金や物など物質的なものを与えること。法施(タンマターン)は、法を与えること。ただし仏教の教えに限らず、自分がよく知っていて他者にとって有益な情報となるものも含まれる。例えば、誰かに勉強を教えてあげたり、専門知識を提供したりするのも広い意味での法施といえよう。

そして、無畏施(アパイヤターン)。無畏を与える。これがよく分からなかった。辞書には恐怖から解放してあげること、とある。タイ語では「赦(ゆる)しを与える」こと。赦しを与える? 財と法と赦し? なんだか腑(ふ)に落ちずにいた。

パーリ語の達者な主人に、原語の意味を尋ねてみた。すると、赦しとは「畏(おそ)れなきことを与える」ことだと教えてくれた。なるほど、よく見ると漢字はそう表記されているではないか。そして、パッと尊敬するタイ僧侶たちの姿が目に浮かんだ。彼らの醸し出す、自然で柔和な佇(たたず)まい。

赦せないと思っている時、同時に相手に畏れを抱き、与えている。しかし、自分ではそのことに気づきにくい。相手の方が先に自分に畏れを与えたと思うからだ。しかし自らの頑(かたく)なな力に気づいて緩め、まず先に畏れを抱かない。それが無畏施の実践だ。

ふと、母のことを思い出す。母は夫である父を亡くした後、加害者を赦した。心の葛藤がなかったわけではないだろう。それでも、加害者を赦して本人の更生に尽力した。そして母の赦しは、私が仏教に強い関心を向けるきっかけとなった。

実は、赦されたのは加害者だけでなかった。娘である私もまた「畏れなきこと」をおくられていた。もし母が加害者を赦さずにいたら、今頃私も恨みつらみを抱えたまま生きていただろう。

与えない、おくりもの。

それが確かにある。それを私も、誰かにそっと届けられる人生を歩みたい。

プロフィル

うらさき・まさよ 翻訳家。1972年、沖縄生まれ。東京工業大学大学院博士課程修了。大学在学中からタイ仏教や開発僧について研究し、その後タイのチュラロンコン大学に留学した。現在はタイ東北部ナコンラーチャシーマー県でタイ人の夫と息子の3人で生活している。note(https://note.mu/urasakimasayo)にて毎朝タイ仏教の説法を翻訳し発信している。