気づきを楽しむ――タイの大地で深呼吸(2) 文・浦崎雅代(翻訳家)

タイではお釈迦さまの誕生日を祝わない!?

4月8日。日本では釈尊の誕生を祝う「降誕会(灌仏会=かんぶつえ)」がある。クリスマスほど派手ではないにしろ、寺院や仏教関係の場所であれば小さなお釈迦さまの像に甘露を灌(そそ)ぎながら、その誕生に思いをはせる日となるのだろう。

実はこの日は、私の家族にとっても記念日。今年で3歳になる息子の誕生日だ。私にとっては初産の高齢出産、おまけにタイでの出産である。不安もあったが、身近な主人をはじめ多くの人に支えられて無事出産の日を迎えられた。

誕生の知らせを友人たちに届けた時、ある違いに気がついた。日本から届くメッセージには「おめでとう! お釈迦さまの誕生日と一緒だね!」と添えられる。しかし、タイの友人たちからの言葉には、このフレーズがどこにもない。

タイは人口の9割以上が仏教徒である。しかし、4月8日は釈尊誕生を祝う日ではない。ではいつか? 降誕会が別の日にあるわけではない。実は、「降誕」「成道」「般涅槃(はつねはん)」という、「誕生日」「悟った日」「命日」をまとめて同じ日に祝うのだ。5月に行われるヴェーサカ(ヴェサック)祭りである。

私は長い間、この3つの出来事を同時に祝うという感覚がよく分からなかった。どうして別々に祝わないのだろう?と。しかし息子誕生の際に、あるお坊さまから祝福の言葉を頂いた時、その感覚が分かってきた気がした。

「『私の命』ではなく、『この命』。この命ではなく『誰のものでもない命』を生きられたら、それはずいぶんと幸せなことです」

生まれたばかりの幼子を抱きながら、私はこの言葉に何度も救われた。子供を授かり「私の命」「私の子供」という無自覚な思い込みによって生じる苦しみ。もちろんかわいいわが子ではあるが、同時に、私の力ではどうコントロールすることもできない「この命」。そして深く洞察していくと本質的には「誰のものでもない命」だ。

誰のものでもない命が、今ここにある――そう観(み)えた時、フッと肩の力が抜け、目の前の子供の姿がはっきりと観えてきた。

釈尊の誕生が意味するもの、それは喜びだけではない。生は同時に苦しみの始まり。その苦しみを正しく観る智慧(ちえ)を悟り、そして肉体は必ず消え去っていく。誕生と悟りと死は、切り離すことのできない学びなのだ。

その学びのチャンスとして、私がこの世に今、生を受けているという幸運。それを感じながら日々生きているだろうか――。日々成長していく子供の姿が、その問いを私に投げ掛けている。

プロフィル

うらさき・まさよ 翻訳家。1972年、沖縄生まれ。東京工業大学大学院博士課程修了。大学在学中からタイ仏教や開発僧について研究し、その後タイのチュラロンコン大学に留学した。現在はタイ東北部ナコンラーチャシーマー県でタイ人の夫と息子の3人で生活している。note(https://note.mu/urasakimasayo)にて毎朝タイ仏教の説法を翻訳し発信している。