気づきを楽しむ――タイの大地で深呼吸(47) 写真・文 浦崎雅代(翻訳家)

そう思っていたある日、アシュラムのリーダー僧であるスティサート師が、夕べの読経後に次のような話をしてくださった。

「私たちは日々、読経をしたり、瞑想をしたりしています。善きことを継続する、努力精進するということは修行にとって非常に重要です。ある時はやる気満々となり、ある時は怠け心が湧いてしまうことがよくありますから、継続しようと思っていたことができなくなることも少なくありません。

托鉢に歩く僧侶たち。村人が食事となる供物を捧げる

ルアンポー・チャー(タイの高僧の一人)は、弟子にこうおっしゃったそうです。『やる気満々の時も修行、怠け心が出てきても修行』と。これは、やる気があってもいいし、怠け心だってあってもいいよ、ということです。ただ、いずれの変化にも気づいて、それらにはまり込んでいかないこと。まさにそれが心の修行なのです」

そして、スティサート師はこう続けられました。「よく心を観察してみましょう。やる気がある時というのは、欲に駆られています。逆に怠け心が出てきた時も同様に、欲に駆られています。修行というのは欲に駆られてするものではありません。いずれの欲も生じてきたら、〈生じてきたな〉と気づくことが大事です。やる気も怠け心も、心に生じてくる『症状』ですから、生じたらいずれ消えていく。善きことを継続することで大切なのは、生じてきた双方の感情も『症状』だと受けとめて、それを信じ込まないこと。そうした感情を乗り超えて、善き実践をしていくことが重要なのです」。

善き習慣を身につけたい時、私たちはやる気を出せば取り組みは続くと思い込んでいる場合が多い。でも、それはいわば、行動がやる気に依存している状態なのだ。やる気もまた無常であり、思い通りになるものではない。やる気も怠け心も一過性の「症状」として観(み)ることが心の修行の一つ。一時的な感情の波に左右されないことが、行動を継続するための秘訣(ひけつ)であることを、師の話から学ぶことができた。

今年私は、これまで続けられなかった家の中の片づけや掃除を継続しようと思う。もちろん継続すること自体も大切だが、きっと私の心にも生じるであろう、やる気と怠け心にも出合う準備をしておこうと思う。いつ出現するか分からないけれど、出てきた時には「やあ、きましたね!」とニコッと笑顔で迎えたい。やる気にはまり込まず、怠け心を邪険にせず。淡々と善きことを継続していきたい。

プロフィル

うらさき・まさよ 翻訳家。1972年、沖縄県生まれ。東京工業大学大学院博士課程修了。大学在学中からタイ仏教や開発僧について研究し、その後、タイのチュラロンコン大学に留学した。現在はタイ東北部ナコンラーチャシーマー県にある瞑想修行場「ウィリヤダンマ・アシュラム」(旧ライトハウス)でタイ人の夫と息子の3人で生活している。note(https://note.mu/urasakimasayo)にて毎朝タイ仏教の説法を翻訳し発信している。