気づきを楽しむ――タイの大地で深呼吸(36) 写真・文 浦崎雅代(翻訳家)
気づきを高めると、お金も節約できる!?――田舎暮らしの5年間を振り返る
先日、あるユーチューバーから依頼があり、数日間取材を受けた。タイ仏教の通訳・翻訳をしながらタイで田舎暮らしをする私の生き方に、興味を抱いてくださったのだ。取材では、私のタイとの出合いから今に至るまでを聞かれ、いろいろ振り返ることができた。
5年前まで大学で教員として働いていた私とタイ人の夫。息子が生まれて1年ほどしてから、夫婦共に組織を離れ、フリーランスになった。自然豊かな場所にある瞑想(めいそう)修行場「ウィリヤダンマ・アシュラム」に住むという生活を選んだのだ。夫は、自分たちで食べるための農業をしつつ、生活に必要なものを自分で作る、いわば「百姓」で、私も夫も息子も今、それぞれその生活を楽しんでいる。移住前は、〈無謀な選択かも〉と思うこともあったけれど、振り返ってみると私たちにとっては自然な流れであった。
取材は夫にも行われ、夫の考えを知ることができ、私自身の新たな発見につながった。その一つが、気づきとお金についての関係である。
それは、「なぜ大学を辞めてこの生活を?」という質問から始まった。彼は、大学で働いている時に「本当の自立とは何か」を考えるようになったと切り出した。そのきっかけは、保育園から「0歳の息子が熱を出した」という連絡を受けた時らしい。彼は、「熱を出して苦しむ子供のそばにいて面倒を見たい。でも仕事がある。あれ? わが子のことなのに、なぜ他人が面倒を見ているのだろう? 親がお金を支払い、しかも子供と離れ離れ。何かが違う」と思ったらしいのだ。
この疑問は、都市でしか生活したことのない私には生じ得なかっただろう。「親は仕事、その間に子供は保育園」、それが当然と思っていた。しかしよく考えてみると、そうしなければならないものでもない。夫が育った田舎では多くの人が農業に従事し、子供たちは親のそばをうろちょろしながら成長し、時に農作業を手伝うことの方が至極当たり前だったからだ。
今私たちは、ほとんどの時間を共に過ごしながら、生活に必要で自分で作れるものはなるべく作っている。太陽光発電で最小限必要な電力、食べられる野菜を植え、家も手作り。幸いアシュラムの敷地内には農園があって、いろいろ工夫できる。親しくなった村人からは大量の竹を無償提供してもらったり、隣県で長年農園をやっている日本人の友人からはおいしいトマトの苗を頂いたりと、「おすそ分け経済圏」とも言えるネットワークが張り巡らされているのだった。
夫が作る手作りの野菜も家も、見た目は悪い。しかし暮らすのに全く支障はない。むしろこの生活での経済的メリットすら感じている。今タイの都市部では大気汚染が問題となり、空気清浄機やマスクがなくては快適な空間がつくれない。しかし、それらを必要としなくても、ここでは毎日深呼吸ができるのだ。自(おの)ずと体にも心にもいい影響を受けている。夫は今、ほとんど現“金”は稼いではいないが、現“物”を工夫し暮らしを楽にするという意味で、人一倍働いている。