気づきを楽しむ――タイの大地で深呼吸(26) 写真・文 浦崎雅代(翻訳家)
以前、タイの高僧でブッダダーサ比丘(びく)という方の瞑想(めいそう)に関する本を邦訳したことがある。瞑想実践の中では、「感受(ヴェーダナー)を観(み)る」という訓練がある。感受、つまり私たちが五感を通して感じるもので、「快」「不快」「快でも不快でもない」といういずれかの感覚に分かれていく。それを自覚する練習である。私たちは何かを見たり、聞いたりしたらすぐに、心地良い、あるいは好ましく感じたら、もっともっとと欲しくなる。逆に、不快で、好ましくなければ、間髪入れずに嫌悪が生じてくる。また、快でも不快でもない場合でも、はまり込むと飽き飽きしたり、刺激を求めたりと、知らずしらずに感受が私自身を振り回すようになってくる。
ブッダダーサ比丘が語った感受に関する文章に、次のようなものがあった。
“ヴェーダナーに関して愚かになるとき、物質主義の奴隷になります。この幸せは物質的な喜び、すなわちヴェーダナーの味に耽(ふけ)ったときに生じます。世界に起きているすべての危機は、元をたどるとヴェーダナーを理解していない、ヴェーダナーに屈服し、ヴェーダナーに夢中になってしまった人々によるものです。感受は、私たちをいざこざや口論、紛争、時には戦争にまで導いてしまうものです。”(ブッダダーサ比丘『呼吸によるマインドフルネス』サンガ、p.154-155より抜粋)
「世界に起きているすべての危機の元が感受を理解していないから」という一文に、私はとても驚いた。本当にそうだろうか、と自問自答してみた。確かに、自分が心地良いことを疑うことなく他人に押し付けてしまったり、また自分が不快に感じることを他人がしたときに、その人の感じ方を無視して嫌悪してしまったりすることがあると気づいた。
日本での晴れも、タイでの曇りも、その場、その時、その人の感受に基づいた「良い」天気でしかない。たかが天気と思われるかもしれないが、これは私自身に潜んでいた感受のわなを教えてくれる大切な気づきであった。
心地良さを、心地良さと知ること。そしてその心地良ささえも、しがみつけるものではないと知ること。感受に惑わされずに感受を知る。「良い天気だな」と思わずつぶやくたびに、私はふと、われに返ることにしている。
プロフィル
うらさき・まさよ 翻訳家。1972年、沖縄県生まれ。東京工業大学大学院博士課程修了。大学在学中からタイ仏教や開発僧について研究し、その後タイのチュラロンコン大学に留学した。現在はタイ東北部ナコンラーチャシーマー県でタイ人の夫と息子の3人で生活している。note(https://note.mu/urasakimasayo)にて毎朝タイ仏教の説法を翻訳し発信している。