共生へ――現代に伝える神道のこころ(13) 写真・文 藤本頼生(國學院大學神道文化学部准教授)

分岐点や境界を守り、厄災の侵入を防ぐ神々

やや話が逸(そ)れたが、先に述べた「サイノカミ」とは、「塞の神」のことで、一般的には道祖神としても知られている。村境を守る神であり、日本の神としては八衢神(やちまたのかみ。衢神〈ちまたのかみ〉=八衢比古神〈やちまたひこのかみ〉、八衢比売神〈やちまたひめのかみ〉)と考えられている。八衢神は、御崎(ミサキ)神社や塞神社、道祖神社、八王子神社に多く祀(まつ)られ、主祭神としては全国に二百九十一社が祀られている(神社本庁編『全国神社祭祀祭礼総合調査』)。八衢神は、江戸時代の国学者である賀茂真淵によれば、『古事記』にて伊耶那岐神(いざなぎのかみ)が、黄泉国から帰還して禊(みそぎ)をする際、身に着けたものを脱いだ時に成り出でた十二神のうち、投げ捨てた帯に成った神とされる道之長乳歯神(みちのながちはのかみ)がこの二柱の神にあたるという(賀茂真淵『祝詞考』)。真淵の弟子にあたる本居宣長の『古事記伝』では、同様に伊耶那岐神が禊をした際に成り出でた十二神の中の道俣神(みちまたのかみ)が八衢神と同神であるとしている。また、『日本書紀』神代下及び『古語拾遺(こごしゅうい)』では、八衢神を敵の攻撃や侵入を防ぐ防塞の神であるとし、猿田彦神(さるたひこのかみ)と同神であると考えられている。

なお、『日本書記』の神代上にある別伝承では、道の分岐点の守り神、道路の巷(ちまた)に立ち塞(ふさ)がって種々の災禍を防ぐ神である久那戸神(くなどのかみ、ふなとのかみ=岐神、来勿戸、経勿処神とも書く)と同神であるとも考えられており、『古事記』にある衝立船戸神(つきたつふなとのかみ)が同神と考えられている。岐神の「岐」は分かれ道の意で「ちまた」の訓がある。

神奈川・箱根町の街道沿いに安置された道祖神の石碑(写真・筆者提供)

さらに、平安時代に編纂(へんさん)された『延喜式』の道饗祭(みちあえのまつり)の祝詞でも、鬼や疫神など悪しきものが都に入ることを防ぐ神として八衢比古神の名が見える。かつて平安京で行われた災禍疾病をもたらす疫神を祓(はら)う国家祭祀の一つ「道饗祭」は、伊耶那岐神が黄泉国(よみのくに)から逃げ出す際に泉津醜女(よもつしこめ)に追われた折、御縵(みかずら)などを投げ捨て、最後に杖(つえ)を投げ捨てた時に岐神が生まれたという伝承に由来するものである。こうした由緒から考えると、八衢神は分岐点や境界を守り、災厄の侵入を防ぐ神であることは明らかであろう。京都ではこれにあやかって八衢神を四つ角、交差点や分岐点などの交通を守る神として考え、「ヤチマタキャンペーン」なる交通安全運動を京都府神社庁が中心となって実施している。

一例だが、川崎市中原区下小田中にある「齋の神」は、旧江川を挟んで高津区と中原区の境界にあたる道路沿いに建立されており、昨年、市の有形民俗文化財に指定された。かつては新年に齋の神(どんど焼き)行事を行い、無病息災を祈ってきたことを後世に伝える石碑だ。川崎市や横浜市では道祖神や塞の神も多いが、「地神」「地神塔」などと記された石塔が神社境内や路傍に広く残存している。この「地神」は、「ジシンサマ」と呼ばれており、鍬鋤(くわすき)を持つ神で土地の神や農耕を掌(つかさど)る神と考えられている。それゆえ、かつては春分・秋分に最も近い戌(いぬ)の日(社日=土の神を祀る日)に春は豊作祈願、秋は収穫感謝のため、「オヒョウゴ」と呼ばれる地神の掛け軸をかけ、粟(あわ)の餅や塩餡(しおあん)を作ってお膳にのせ、供え祀る地神講(じしんこう)の祭事が行われていた。

こうした信仰を地神信仰と呼び、地神講や社日講が建立したのが地神塔である。全ての地神講が地神塔を建立したわけではない。地神信仰は道教や陰陽道(おんみょうどう)、仏教、修験道などの影響も受けたものであると考えられ、正富博行氏の研究によれば神奈川県内の地神塔は、江戸時代の修験者や僧侶の活動によるものとされている。

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