共生へ――現代に伝える神道のこころ(25)最終回 写真・文 藤本頼生(國學院大學神道文化学部教授)

船津胎内樹型の内部。富士山麓一帯の胎内樹型の中でも最大級で、江戸時代、富士講の信者はまず胎内巡りを済ませてから富士山を登拝したと伝えられている

神社に参拝し手を合わせ願う心が、鳥居をくぐる如く神々へ届くよう

あくまで小生の勝手な所感だが、日本人はどうも「くぐる」ことが好きなようだ。民俗的な風習か、はたまた迷信的なものと考えるか否かはさておき、奈良県の東大寺大仏殿の柱の穴などは、観光客や修学旅行の児童・生徒が訪れる有名な“くぐりスポット”と言える。同じく観光客で賑(にぎ)わう京都府の伏見稲荷大社の境内にある「千本鳥居」も、近年では著名なくぐりスポットとなっている。先日も同社を訪れた際には、千本鳥居の中をくぐり抜けながら、SNSにアップロードするであろう“映え写真”をスマートフォンで撮影する若い着物姿の女性や、親子連れで溢(あふ)れていたのには驚いた次第である。

「くぐる」といえば、真っ暗な洞穴の中を人の内臓になぞらえて進む「御胎内巡り」もくぐりスポットの一つだ。山梨県富士吉田市の北口本宮冨士浅間神社は、富士山の吉田登山口の起点となる地に鎮座する神社で、富士講の信仰拠点となっている社(やしろ)である。同社から登山道一合目の近くに「船津胎内樹型」(富士河口湖町)と「吉田胎内樹型」(富士吉田市)と呼ばれる洞穴がある。両者ともかつての富士山の大噴火で流れ出た溶岩により形成された洞穴である。

「胎内樹型」とは、火山の噴火によって溶岩が流れた際に周囲の樹木を取り込み、その樹木が高熱で燃焼することで内部が空洞化し、その空洞となった洞穴が人体の内部に似た形状となることから付けられた名称だ。船津胎内樹型は、江戸初期に富士講の開祖として知られる長谷川角行が発見したとされる。角行により木花開耶姫命(=このはなさくやひめのみこと。浅間大神)が祀(まつ)られた後、角行の弟子によって寛文年間に社殿が建立・復祀されたのが無戸室浅間神社(=むつむろせんげんじんじゃ。船津胎内神社)の創祀(そうし)である。吉田胎内樹型についても同様に、明治二十五(一八九二)年に富士講の信者が発見し、巡礼地となったもので、両樹型はともに国の天然記念物に指定されている。吉田胎内樹型にも木花開耶姫命が祀られており、年に一度、吉田胎内祭が斎行されるものの、洞穴内部は非公開となっている。両者とも平成二十五(二〇一三)年六月にユネスコの世界文化遺産「富士山―信仰の対象と芸術の源泉」の構成遺産として登録されている。

このような胎内樹型の洞穴の中をくぐり抜ける行為は、小生にも体験があり、ちょっとした異世界体験であった。船津・吉田の両樹型はともに富士山登山道の吉田口に近接していることから、多くの富士講信者によって霊地として重視され、富士山登拝の前日に信者がこれらの「御胎内」を訪れ、洞穴内を巡って登拝前の身体を清めたと伝わる。なお、富士山の御殿場口にも同様に富士山の噴火の際の溶岩にによってできた洞穴がある(国指定天然記念物「印野=いんの=の溶岩隧道=ずいどう」)。この洞穴の中にも大山祇命(おおやまづみのみこと)や木花開耶姫命を祀った祠(ほこら)などがあり、山梨県側と同様に「御胎内巡り」が行われていることでも知られている。洞穴に隣接する形で胎内神社も鎮座しており、安産祈願の参詣も多い。

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