共生へ――現代に伝える神道のこころ(18) 写真・文 藤本頼生(國學院大學神道文化学部教授)

1800年以上の歴史を有する生田神社。神戸(こうべ)という地名は、律令時代、生田神社に租・庸・調を納めた封戸(ふこ)のことを指す「神戸(かんべ)」に由来する

地域に根付いた地名と神社の関係 歴史や伝統を後世に残す努力を

地域神社の調査をするために市街地を歩いていると、時々、細い路地に出くわすことがある。こうした路地や谷の行き詰まりを、三重県南部の方言では「世古(=せこ。瀬古)」と呼ぶ。同県内の市町村には「世古」に由来する「大世古」「瀬古口」「小世古」といった地名があり、人名では「世古」さんという方もいらっしゃる。特に市街地に世古の多い伊勢市では近年、世古を活用したまちづくりのためのワークショップが行われるなど、地名の持つ意味とその奥深さには、いまだに驚かされることが多い。

神社や神々は、その由緒や歴史の古さから時折、地名へとつながることがある。地名研究家の楠原佑介氏によれば、神社にちなむ地名は「歴史的地名」「伝統的地名」の類いに入るとされる。例えば、八幡神社にちなむ「八幡」や、天満神社にちなむ「天神」は、最も著名な神社地名の一つだ。全国各地には八幡町や天神町などの地名が残存しており、岩手県盛岡市の八幡通りや、大阪市北区にある日本で一番長い距離を誇る商店街として知られる天神橋筋商店街のように、門前にある通りの地名になっているケースも多い。

盛岡八幡宮へと続く八幡通り。同宮がある八幡町は、八幡宮の門前町として町割されたことに由来している

また、中世の一宮制に由来する「一宮(=いちのみや。一之宮、一の宮)」も神社由来の地名だ。市街一帯が旧尾張国一宮であった真清田(ますみだ)神社の門前町として栄えたことにちなみ、愛知県一宮市となった。旧相模国の二宮(にのみや)の川勾(かわわ)神社、旧美作国(みまさかのくに)の二宮の髙野神社にちなむ「二宮(二ノ宮)」など、一宮とともに市町村名や大字(おおあざ)名、鉄道の駅名になっている地名もある。「宮崎」「宮内」「宮前」「宮下」などの大字・小字(こあざ)も各地で散見される神社関連の地名だ。そこで今回は地名との関係性の中に神道・神社の共生の姿を探してみたい。

地名と神社との関係で小生がまず思い出すのは、兵庫県神戸市の生田神社である。政令指定都市である神戸市には、昭和二十(一九四五)年五月から昭和五十五(一九八〇)年十一月まで、「生田区」という生田神社にちなんだ区の地名が存在していた。この「生田」の名は、神戸では鎌倉時代から続く古い地名であったが、行政区域の再編によって四十二年前に無味乾燥な「中央区」という区名に変えられてしまった。また旧生田区内には、神戸を代表する地名として著名な「三宮(さんのみや)」もある。これは明治期からの町名である三宮町の名に由来するものだ。三宮町は、生田神社の氏子区域内に同社ゆかりの祭神を祀(まつ)った「裔神八社(えいしんはちしゃ)」と呼ばれる一宮神社から八宮神社までの八社のうちの一つ、三宮神社に由来するものである。なお、この裔神八社では、現在でも節分の日に一宮から八宮までの八社を巡拝して厄祓(やくばらい)祈願をする風習があり、生田神社とともに地元住民に親しまれてきた。

都心の中央にあり、日本の行政の中心として知られる官庁街の「霞が関」も日本の神にちなむ地名である。諸説あるが、東京都千代田区が設置している町名由来板(享保二十一年の『武蔵野地名考』を根拠とする)の記載によると、地名の由来は古代にまでさかのぼる。『古事記』や『日本書紀』に登場する日本武尊(やまとたけるのみこと。第十二代景行天皇の皇子)が、蝦夷(えみし)からの進攻に備えてこの地に関所を設けたことに由来する地名とされ、関所から雲霞(うんか)を隔てて遠方を望める地であったという伝承に基づくものと考えられている。

なお、日本武尊に関する地名としては、静岡県の「焼津(やいづ)」が著名である。『日本書紀』によれば、日本武尊が東征の折にこの地を通った際、賊に襲撃されて火攻めに遭ったが、尊は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)で草を薙(な)ぎ払い、火を放ち、危機を脱した伝承が地名の由来とされ、市名にもなっている。同様にして静岡市清水区にある「草薙(くさなぎ)」の地名もこの火難伝承にちなむものと伝えられている。双方の地には焼津神社、草薙神社がそれぞれ鎮座しており、いずれも延長五(九二七)年成立の『延喜式神名帳』に掲載されたと比定される古社である。

【次ページ:「平成の大合併」によって失われたもの】