心の悠遠――現代社会と瞑想(14) 写真・文 松原正樹(臨済宗妙心寺派佛母寺住職)
「つながり合う心」と「慈しみの心」
坐禅会イベント両日の朝、小堀氏は一人で黙々と清水寺伝来のおはぎを一つずつ丁寧に作られていた。お一人で、である。参加人数分を作るわけなので、2日間で少なくとも60個ほどを一人で作ったことになる。一つ一つに対する集中力と真剣なまなざしを持ち、凜(りん)としておはぎを作る姿は、その場を“聖域”にさえしていた。
大西和尚はおはぎに使う米を炊くために、清水寺に伝わる「健康・延命長寿」の「音羽の滝の清水」を持参された。さらに、一語または一句ずつ、しかも一枚一枚に異なった言葉が書かれた自筆の色紙を全部で65枚用意されており、参加者一人ひとりに書の説明付きで渡された。
法話の中で大西和尚は、清水寺の「現在進行形仏教寺院」という一面を紹介。時代のニーズに対応しながら、医療、福祉、芸術、芸能、伝統文化、平和活動などの取り組みを関係各位と協力して進め、こうした活動を通して社会に貢献していくことが大事と語った。お茶の時間では、小堀氏と一保堂の渡辺正一氏が心を込めてたてた抹茶が一杯ずつ参加者に振る舞われた。
坐禅会に込められた「心のこもった想(おも)い」が参加者に伝わったかどうかは、彼らが「感謝」という言葉をどれだけ口にしていたかで明らかになる。一方、われわれは何もかしこまって「心のこもった想いを感じてもらわなければ」と意識したのではない。ただただ、参加してくださる方への感謝からであった。この感謝の気持ちから自然に出てくる、〈参加者の方々に楽しんで頂けたら〉という思いだけである。「つながり合う心」と「慈しみの心」は、法話の語り口、色紙一枚、おはぎ一つ、一杯のお茶の一つ一つに全て集約されていた。ひょっとすると、同じ時間と空間の中で静かに坐(すわ)っていた坐禅の時間の中でも「つながり合う心」と「慈しみの心」は感じられていたかもしれない。
質疑応答の時間では、参加者が自分たちの直面している悩みや苦しみを赤裸々にシェアし、それぞれが意見を出して語り合った。その結果、それらの悩みや苦しみというものが、自分一人が抱え込んでいるものではないことも同時に分かったであろう。むしろ、誰もがどこかで、何となく同感、同意できたものであったはずだ。
われわれの坐禅会は、今のトレンドを追うだけの「ファッションメディテーション」ではなく、ゆっくりではあるが確実に、ニューヨーカーたちの心の依りどころになっている。