心の悠遠――現代社会と瞑想(11) 写真・文 松原正樹(臨済宗妙心寺派佛母寺住職)

人種のるつぼといわれる米国。多様な民族が多様な価値観で生きている(写真はニューヨークのグランド・セントラル駅=筆者提供)

仏教の平和への展望と役割

第二回のサンフランシスコ禅センターでの講義では、白隠による坐禅・瞑想(めいそう)を通しての健康法が、その内容になっている著作『夜船閑話(やせんかんわ)』に言及した。白隠が若かりし頃、坐禅をやりすぎて、禅病(結核、ノイローゼ、またはこれらの合併したものと伝えられている)にかかるのである。症状としては、両脚が氷や雪のように冷たく、始終耳鳴りがやまず、ビクビク、オドオドして神経が参る。両脇は常に冷や汗が流れ、目は涙目でウルウルしているという。各地に名医といわれる医者を訪ねても、いっこうにらちが明かないのである。その時に、京都の白川の山中に白幽子なる仙人がいて、医の道に大変通じておられるから、ぜひ、診て頂いたらよい、と言われ、わらをもつかむ思いで真冬の白川の山に登り、氷雪の厳しい中で、白幽子仙人にまみえる。白幽子は白隠を一見した後、坐禅修行が節度を超えてしまい、医者でも治せぬ「禅病」だと診断する。唯一、救う道は、「丹田(たんでん)の呼吸法」しかないと。坐禅の極意である。その秘法を著したのである。

『夜船閑話』だけでなく、これまで一般的に、「坐禅や瞑想=健康法」という方程式、つまり「瞑想は体に良いものだ」ということだけが説かれてきた。しかし、白隠は「坐禅や瞑想はやり方を間違えるととても危険なものになる」ということを伝えたいのではないだろうか。この点は全くといってよいほど強調されていない。私は坐禅や瞑想をナイフに例えて、正しい使い方をしないと自分や他人を傷つける道具になると強調したい。筋力トレーニングをする時でも、正しい方法でなければ、むしろ体を痛めるだけのことと同じである。

実際、白隠は過度の坐禅修行で禅病になった。過度の坐禅修行や、その方法を間違え、正しい指導を受けなければ、逆に視野が狭くなったり、白昼夢の状態にいたり、幻覚、幻聴、精神的疾患などを引き起こす。あまりにも禅の得意の「今」に没頭し過ぎると、周りのコンテクストから切り離されて現実性を失うこともある。サンフランシスコ禅センターでは、このような坐禅や瞑想とそのデメリットを問題視していた。

アメリカの禅は、日本でいう自己究明的な禅というよりはむしろ、政治・社会的課題や倫理的実践と常に一緒にあり、「同じコインの表と裏」の関係にあると感じている。これは決して、禅というものが異宗教、異文化だからではない。むしろ、アメリカの宗教観、スピリチュアリティ観といったものが、社会と人間の相互展開の過程において開花した歴史的所産であると根本的に考えるからであろう。まさにこの理由から、国際社会における仏教の平和への展望と役割のチャンスがあると見据えている。

プロフィル

まつばら・まさき 1973年、東京都生まれ。『般若心経入門』(祥伝社黄金文庫)の著者で名僧の松原泰道師を祖父に、松原哲明師を父に持つ。現在、米・コーネル大学東アジア研究所研究員、ブラウン大学瞑想学研究員を務める。千葉・富津市の臨済宗妙心寺派佛母寺住職。米国と日本を行き来しながら、国内外への仏教伝道活動を広く実施している。著書に『心配事がスッと消える禅の習慣』(アスコム)。

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