新・仏典物語――釈尊の弟子たち(35)最終回
法の勝利
大地から、幾筋もの煙が立ち上っていました。焦土作戦で村々が焼かれ、灰燼(かいじん)に帰したのです。街道には、護送される虜囚の列が、はるかかなたまで延びていました。
その光景を、アショーカ王は、幕舎の外から眺めていました。その時、騒ぎが起こりました。突然、列が乱れ、一人の男が兵たちによって小突き出されました。王はその男に興味をそそられました。男が僧衣をまとっていたからです。「あの者を連れてまいれ」。兵が駆け出していき、男を引き立ててきました。
「何をした」。王の問いに、男は臆することなく答えました。「赤子を抱いた母親が倒れました。その母親を兵らがむち打とうとしたので、かばったのです」。男は王の眼を見つめ、言葉を続けました。「これが勝者のやり方なのですか」。
「何が悪い」
「むごい仕打ちをなさる」
「戦だからの。負ければ、わしもおまえのように惨めな姿をさらさねばならぬ」
「全ての民を慈しむのが、人の上に立つ者の務めではないのですか」
王は顔を背けました。不快なものが込み上げてきたからです。「もうよい。その者を列に戻せ」。
「民を慈しむのが、王の務めではないのか」。そう言った男の言葉が、何度もよみがえってきました。あれからひと月が過ぎていました。「あの男を探し出し、連れてまいれ」。王は従者に命じました。しばらくすると、男が連行されてきました。
「わしを侮辱した、惨めな男の顔を思い出したのでな。来てもらった」
王を見つめる男の眼は、あの時と同じように澄んでいました。「私は自分を惨めだと思ったことなどありません」。
「ほう」
「惨めな人間というのは、人を虐げていても痛みを感じない人間のことです。そのように、お釈迦さまの教えに説かれています。つまりは、あなたさまのような人間のことです」
従者たちが気色ばみ、男を部屋から引きずり出していきました。怒りはありませんでした。男の言うことに間違いはなかったからです。
歳月が流れ、仏教に帰依した王は領内に布告を出しました。そこには戦争で犠牲になった民への謝罪と武力征討の放棄、法(宗教的な教え)に基づく施策の実行とあらゆる宗教の保護などが謳(うた)われていました。その布告には、こうも記されていました。
〈法による勝利こそ、最上の勝利なり〉
(阿育王刻文より)
※本シリーズでは、人名や地名は一般的に知られている表記を使用するため、パーリ語とサンスクリット語を併用しています
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