新・仏典物語――釈尊の弟子たち(19)

女人

講堂に弟子たちが集まり始めました。すでに釈尊は上座に着かれ、瞑目(めいもく)されていました。これから、アヌルッダ(阿那律=あなりつ)に下問(かもん)があるというのです。アヌルッダも最前列に控えていました。弟子たちが集まり終わると、釈尊は静かに目を開け、アヌルッダに問い掛けられました。「汝(なんじ)は、女人と一夜を共にしたというが、それは確かなことか?」。

その質問に、アヌルッダは臆(おく)することなく応えました。「間違いありません」。そして、事情を説明し始めました。

アヌルッダがシュラーヴァスティーからコーサラ国へ向かう途中、ある村に立ち寄りました。日も暮れたので、その村で夜を過ごそうとしたのです。村人が紹介してくれた宿は娼家(しょうか)を兼ねていました。アヌルッダは迷わず宿を訪ね、一夜を明かすため軒下をお借りしたいと主(あるじ)に申し出たのでした。主は若く、美しい女性でした。着飾った身体からは、ほのかな色香が漂っていました。アヌルッダのことを彼女は知っているようでした。用件を伝えると、女主人は承諾してくれました。

夜半、軒下で結跏趺坐(けっかふざ)し身体を休めていると、女主人に声を掛けられました。「アヌルッダさま、お部屋を用意しますので、よろしかったらこちらでお休みくださいまし」。アヌルッダはこの申し出を受け入れました。部屋に案内されたアヌルッダが趺坐すると、明かりを灯していた女主人が突然、後ろからアヌルッダに抱きついてきました。「アヌルッダさま……」。熱い息が首筋に絡み付いてきました。

柔らかな肢体がさらに押し付けられてきた時、アヌルッダは宙に浮き上がりました。驚いた女主人は床にひれ伏しました。彼女のために、アヌルッダは釈尊の教えを説き聞かせました。情欲の虚(むな)しさ、快楽の儚(はかな)さ。そんなことは知っていても情欲に溺れる人間の愚かさ、悲しさ……。女主人は在家の信者になることをアヌルッダに誓いました。

事の顚末(てんまつ)を聞いた釈尊は、アヌルッダを鋭く見据えられました。「おまえはその時、女人に心が動いたか?」。心が惑わされたか否か。それで戒律を犯したかどうかが決まるからです。アヌルッダは無言で釈尊を見つめました。静かな時が流れました。アヌルッダの、そのまなざしに翳(かげ)りはありませんでした。
(四分律より)

※本シリーズでは、人名や地名は一般的に知られている表記を使用するため、パーリ語とサンスクリット語を併用しています

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