法華経のこころ(14)

人間の生き方の究極の境地が示された法華三部経――。経典に記された一節を挙げ、記者の心に思い浮かんだ自らの体験、気づき、また社会事象などを紹介する。今回は、「如来寿量品」と「五百弟子受記品」から。

所以は何ん、若し仏久しく世に住せば、薄徳の人は善根を種えず(如来寿量品)

「なぜ私がこの世から去るのかといえば、もし私がいつまでもいるということになれば、徳の薄い普通の人は、つい安易な心が生じて、善い種子をまき、善い根を育てることを怠るからです」

親戚のおじいちゃんが亡くなった。私の祖母の弟にあたる人だ。血縁は薄かったが、私の祖父母はすでに他界していたせいもあり、私を自分の孫と同様にかわいがってくれた。

子供のころ、私はよくはとこ(おじいちゃんの孫)たちと、伊豆にあるその家に遊びに行った。勉強家だったおじいちゃんは、読書中に感動した箇所を見つけると、すぐに子供たちを呼び集め、読んで聞かせてくれた。話の内容は難しくてさっぱりわからず、正座した足はすぐにしびれた。お説教も度々だった。厳しい雰囲気がこわくて泣いてしまったこともある。それでも、私は一方でそれらのことがなぜかうれしくてたまらなかった。

私は「祖父」という人にどう接したらよいのかわからず、子供ながらにおじいちゃんに対して、多少気兼ねのようなものがあった。おじいちゃんは私のためらいを知っていたのだと思う。自分からあまり甘えていかない私の手を、みんなで散歩する時、何も言わずに握ってくれた。

そのことを思い出したのは、おじいちゃんが亡くなった時だった。叱ってくれた時、手を握ってくれた時、照れくさくて言えなかった「ありがとう」は、ついに涙でしか伝えられなかった。
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※所以(ゆえ)は何(いか)ん、若(も)し仏久しく世に住せば、薄徳(はくとく)の人は善根(ぜんごん)を種(う)えず

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