法華経のこころ(17)

人間の生き方の究極の境地が示された法華三部経――。経典に記された一節を挙げ、記者の心に思い浮かんだ自らの体験、気づき、また社会事象などを紹介する。今回は、「無量義経十功徳品」と「信解品」から。

憍慢(きょうまん)多き者には持戒の心を起さしめ(無量義経十功徳品)

「おごり高ぶった人も、この教えを聞けば、自分の足りなさがわかり、自分の心や行いの間違いが見えてくるため、謙虚な心が起こってくる」

原稿の校正や紙面に原稿を割り付ける整理記者は、華やかな面のある取材記者に比べ、陰役的存在だと言える。皆の“注目を浴びる”のは校正ミスを出した時である。

そのミスをおかしたことがある。全員で目を通し、一字たりとも間違いがないことを確認、いよいよ印刷に入る寸前、独断で「行」をずらした。そこに、取り返しのつかないミスが生じていたのだ。

その日、家で知らせを受け、愕然(がくぜん)とした。なす術(すべ)もなく布団をかぶって丸くなっていた私に、子供たちまで「お父さん、病気になっちゃったの」と、心配顔を寄せてきた。弁解の余地はみじんもない。深い自責の念にかられる中で、やがて私には、それは起こるべくして起こったと思えた。

「俺だったらもっとこう書くのに」「これでは見出しもつかない――」。整理の仕事にも慣れてきた私は、かつて、一人でも多くの人に法を伝えたいと、時には徹夜で記事を書いてきた経験があるにもかかわらず、今、同じ思いで懸命に筆を走らせている同僚の記者を、いつしかそんな気持ちで見るようになっていた。愚かにも、その驕慢(きょうまん)さに自分の足元がすくわれているのにも気づくことができなかった。それが多くの方に迷惑をかける結果につながっていったのだ。

しかし、そんな私にも、仏さまは、“ミス”という現象を通して、「自ら振り返れよ」との温かい救いの手を差し伸べてくださった。今もそう思っている。
(I)

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