清水寺に伝わる「おもてなし」の心(4) 写真・文 大西英玄(北法相宗音羽山清水寺執事補)
「祈り」とは
新型コロナウイルスの感染が広がる中で、冒頭まずもって、一刻も早い世相の安寧と、困難に直面している方々のご快復を皆様と共に祈らせて頂きたい。
尊敬する先生から教わった話である。ある有名な和尚が法話を勤めた後、一人の学生が質問したそうだ。その内容は「自分が何者かを知るためにはどうしたらいいのか」というものだった。周りの聴衆は、和尚がこの若者に対してどのような答えをもって諭されるのか、固唾(かたず)をのんで見守っていた。その答えは、おおよそ以下のようなものだった。
「あなたができることなら何でも構わない。とにかく自分以外の誰かのため、何かのために懸命に努めてほしい。いつかは分からないが、どこかで必ず『やって良かった』と心から思える時を迎えるだろう。その時に向き合うあなたが、本当のあなた自身だと思う」と。
なぜこの話を紹介したかというと、「祈り」の定義につながると思ったからだ。祈っただけで東京大学に合格することは、おそらくかなわない。病気も治らないかもしれない。ではなぜ祈るのか。「ゾーン」とか「何かが降りてくる」というような表現に、皆様は馴染(なじ)んでおられるかもしれない。
例えば、話し合いをするとしよう。集った全員が、心身共にその瞬間に集中し、少しでも良いものを導き出そうとするならば、その頻度は定かではないにしても、時に意を超えた発想や答えが生まれることがある。文化財の修復に従事する人から聞いた話だが、以前、どうやって作業をして良いのか、皆目見当がつかない現場があったという。思いつくあらゆる情報を収集し、手を尽くしても良い手段が生まれない。そんな手順を繰り返していると、ある時、突然どうすべきかひらめいたそうだ。
よく引用するのだが、結婚式の披露宴は、少々乱暴に表現するならば、家族や親戚、友人等が集まり食事を共にしているだけだ。しかし、なぜあれだけ感動するのか――それは、その場を心から大切にしようとする多くの出席者のエネルギーが、真心にあるからだと考える。
これらのように、心身共々その瞬間に懸命に尽力し、向き合うことで、自身の理解や想像を超えた力を預かることがある。私はこれを「神仏のはたらき」と呼べるのではないかと考える。つまり、何事であれ懸命に努力し、自身の意を超えた力を預かる可能性をできる限り広げる、その作業のことを「祈り」と定義できるのではなかろうか。
そう考えるならば、宗教施設に足を運び、そこで決められたルールに従って所作を行うことだけが「祈り」ではなく、医者には医者の、先生には先生の、芸術家には芸術家の、親には親の、子には子の、そして皆様には皆様の、すなわち誰もが自分自身の「祈り」の実践があるはずだ。互いに自身の「祈り」を行動に反映すること――たとえそれぞれ異なる対象であったとしても、どこかで調和のとれた状態にて共存し得ると信じているし、これを一つの平和の形と呼べるのかもしれない。