TKWO――音楽とともにある人生♪ コントラバス・前田芳彰さん Vol.2

部活に入らなければ強制的に園芸部に入らされる――そうした状況を回避するため、中学校では籍だけを吹奏楽部に置こうと決めたが、先輩からコントラバスの担当を命令された前田芳彰さん。今回は、音楽にのめり込み、上京してコントラバスを突き詰めようとの思いに至ったきっかけ、その後、プロの音楽家になった時に感じたことなどを聞いた。

コントラバスにのめりこみ、音楽の楽しさを味わう

――コントラバスの練習はどのように?

初めは何も分からず、勘で弾いていました。チューニング(調弦=音階を合わせること)からして、間違っていましたね。通常、4本の弦は、体に遠いほうからGDAEの音階に合わせるのですが、僕は音程が2度低いFCGDで合わせていたのです。緩く張られたダルダルの弦を懸命に弾く僕を哀れに思ったのでしょうか、OBの指導を尊重し、あまり口を出さない顧問の先生が、教則本を買い与えてくれました。その教則本から、チューニング、指使い、弓の持ち方などの基本を学び、真面目に練習するようになったのです。

高校進学後も、中学で仲の良かった友達と3人で楽器を続けようと話し、吹奏楽部に入りました。ところが、進学先の吹奏楽部の部員は10人程度。演奏もままならない状況に落胆していたら、高校のOBから、アマチュアオーケストラとして現在も続く琉球交響楽団への参加を勧められました。

そこで最初に演奏したのが、ハイドンの「交響曲第83番」(通称「めんどり」)でした。この曲は冒頭、コントラバスがソの音を細かく鳴らす「刻み」で始まります。これが心地良くて。他の団員さんも上手だと褒めてくれました。実はこのパートは、開放で音を鳴らすもので、大した技術は必要としない、いわば、誰にでもできる部分なんです。ところが僕は、周囲におだてられ、舞い上がってしまったんですね。それで僕は、コントラバスにのめり込んでいきます。

当時の琉球交響楽団のリハーサルは毎週水曜の夜。自宅からバスで片道2時間かけて、那覇市内の練習場に通いました。練習の終了時間には、すでに最終バスが出てしまっていたので、親戚の家に泊めてもらい、始発のバスで帰宅して、登校していました。この頃、僕は友人とハードロックバンドを組み、ベースボーカルでディープ・パープルのコピーもしていたんです。吹奏楽部、市民楽団、ハードロックバンド。この三つを掛け持ちしながら、音楽の楽しさを存分に味わっていました。

――音楽が楽しくて、それを仕事にしたいと思うように?

そんな立派なものではなかったです。中学生の頃から、僕は都会に憧れ、沖縄を出たいという気持ちがありました。そこで、上京して音楽の勉強を続けようと。ところが、「うちには音楽大学へ通わせるお金はない」と、親に猛反対されてしまったんです。僕は意地になり、単身で上京しました。そして、渋谷区の一軒家でコントラバスのレッスンをしてくれる先生を見つけ、練習に打ち込みました。

レッスンの時、先生はピアノの鍵盤をたたき、僕に演奏の指示を出します。実際にコントラバスの演奏を見せてくれる機会は少なかったですね。とにかく、できるまで何度も、「もう一回」と言われ、延々繰り返す。もう、しつこいこと、しつこいこと。結局、時間はかかっても最後にはできるようになる。できるまで終わらないんですから(笑)。

当時は、レッスン代、生活費の全てをアルバイトで賄わなければならないので、ひどく貧乏でした。ファミリーレストランの店員、警備員、駐車場の監視員など、さまざまなアルバイトを掛け持ちしました。給料日前は食うに困り、ファミレスの前に並ぶ料理のサンプルを見て、涙を流したことがあります。〈せめて給料日はごちそうを食べよう〉と、その日だけは外食をしてよい日と決めていました。牛丼店で牛丼の並盛りとライスを注文して、肉で白米を食べた後、肉汁が染みたご飯をおかずにして腹を満たしました。そうした中でも、せめて練習量だけは誰にも負けたくないと思い、時間があれば練習に充てていました。

先生には、音楽を続けることを親に反対されたこと、音楽大学に通う学費がないことなどを伝えていました。先生から褒められたことはあまりないのですが、時々、「大学に行かずに、プロになった人もいる」という話をしてくれたんです。勇気づけてくれていたんですね。でも僕は当時、先生の指導についていくことに必死で、言葉の奥に込められた優しさをかみしめる余裕はありませんでした。それよりも、「先生に食らいついて頑張ろう。先が見えなくても頑張ろう」とがむしゃらでした。今思えば、忍耐強く全力で僕と向き合ってくださった先生の指導によって、音楽家としての基礎が築かれました。感謝しかありません。

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