「時代」の声を伝えて――文学がとらえた80年(21)番外編5 文・黒古一夫(文芸評論家)

「時代」の空気を読み、理想社会を模索した文学

最初は「フーテン」などと呼ばれた彼等であったが、後に「競争」ではなく「愛」と「共生」を生活の中核に置く「ヒッピー」と呼ばれるようになる。彼等は、エスタブリッシュメント(既成の秩序・体制)を拒否して仲間たちと「自然回帰」を目指す小さな共同体、すなわちコミューンをつくり、そこで体制とは全く無関係な「芸術」などを志向するカウンター・カルチャー(対抗文化)を体現していた。

画・吉永 昌生

そんな1970年代の社会や文化の在り様を敏感に感じ取っていたのが、大江健三郎であった。大江は東大五月祭賞を受賞した『奇妙な仕事』(57年)で文壇デビューし、その翌年に『飼育』(58年)を著して芥川賞を受賞する。この年は初の長編『芽むしり仔撃ち』も出版された。こうした初期作品が如実に物語るように、大江文学の作品の舞台の多くは、生まれ故郷である四国の山村(愛媛県喜多郡大瀬村)に擬した「谷間の村」であり、そこにおけるユートピアとしての「根拠地」建設の可能性を探る一群の作品を書くようになったのである。

具体的には、まず『万延元年のフットボール』(67年)が挙げられる。さらに、『燃えあがる緑の木』(94年)。これは「『救い主』が殴られるまで」「揺れ動く(ヴァシレーション)」「大いなる日に」からなる3部作で、第2部の「揺れ動く(ヴァシレーション)」の発表後にノーベル文学賞を受賞する。このほか、87年に発表された『懐かしい年への手紙』、95年の「断筆宣言」から4年後に書き下ろされた『宙返り』(99年)が、その大江の試みを象徴する作品と言える。

そして、大江文学に内在する「ユートピア」思想を最も顕現していると言われる『同時代ゲーム』(79年)等において、大江は「社会的弱者(障害者や老人、女性)」も一人の人間として健常者と共に生きることができる「根拠地(コミューン)」の建設を目指して苦闘する主人公のイメージを造形し続けたのである。

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