「時代」の声を伝えて――文学がとらえた80年(4) 文・黒古一夫(文芸評論家)
戦後社会、もう一つの原点
慶應義塾大学の文学部英文科を卒業し、東京に近い千葉・船橋で中学校の英語教師をしていた原民喜は、空襲の激しくなった東京周辺を離れ故郷の広島に帰郷して間もなく、テニアン島から飛び立ったエノラ・ゲイ号(B29戦略爆撃機)から投下された原爆によって、1945年8月6日午前8時15分、被爆する。
原民喜は、爆風で傾いた寄寓先の兄宅から市内を流れる太田川の川岸に逃れた。そこで、燃える家並みを眺め、焼けただれた皮膚をぶら下げ堤防を彷徨(さまよ)い歩く被災者の群に出会い、腹をパンパンに膨らませて流れてくる死者たちを見送る。その一夜の出来事と思いを『夏の花』(原題『原子爆弾』1947年)で次のように書いた。
「川岸に出る藪のところで、私は学徒の一塊と出逢った。工場から逃げ出した彼女達は一ように軽い負傷をしていたが、いま眼の前に出現した出来事の新鮮さに戦(おのの)きながら、却(かえ)って元気そうに喋(しゃべ)り合っていた。(中略)かねて、二つに一つは助からないかもしれないと思っていたのだが、今、ふと己(おのれ)が生きていることと、その意味が、はっと私を弾(はじ)いた。
このことを書きのこさねばならない、と、私は心に呟(つぶや)いた。けれども、その時はまだ、私はこの空襲の真相を殆(ほとん)ど知ってはいなかったのである。」(引用文のルビは編集部)
原民喜の『夏の花』は、占領軍(アメリカ軍)が布いたプレスコード(検閲)によって、原爆に関する情報が一切封じられていた状況下で執筆・発表された。その後発表された『廃墟から』(同)と『壊滅の序曲』(49年)を合わせて、現在では「夏の花」三部作と言われているが、『夏の花』は、第二次世界大戦後の世界が「原爆(核)」という人類絶滅の可能性を秘めた最終兵器に支配されるようになったことを告知した小説であった。