亡くなった多くのみ霊を忘れない 被爆体験証言者・岸田州代氏

次に、私の夫の被爆体験をお話しします。

夫は当時6歳で、兄と姉と共に3人で郊外の親戚の家に避難していて無事でした。しかし、夫の両親と3歳の弟は爆心地から約1キロの自宅で被爆しました。

夫の母は倒れた柱の下敷きになり、父は母を助け出せず、見殺しにして逃げるしかなかったのです。母と弟の遺骨を胸に、郊外の実家に帰ってきた父も1カ月後、原爆症であっという間に亡くなり、きょうだい3人は孤児となりました。

残されたきょうだい3人は、別々の親戚に引き取られました。戦後は日本中が食糧難の時代で、夫は東京の家族5人で暮らすおじさんのもとに引き取られました。次の年、小学校1年生として入学しましたが、何一つわがままの言えない生活が始まりました。夕食はおじさんの家族がみんな済ませてから、一人で残り物を食べます。夫はいつも、おなかがすいていました。また、学用品などを買ってもらう時、「お金をください」と言えず、学校から請求が来て、叱られました。「両親さえ生きていてくれれば」と何度も何度も思ったそうです。

中学生になり、次に広島に住む別のおじさんに引き取られました。そのおじさんも6人家族です。東京のおじさん以上に、甘えることは許されませんでした。中学2年生の時、学校で「親なし子」といじめられ、そばにあった椅子を思い切り相手の子に投げつけ、大けがをさせてしまいました。嫌なことを言われたり、苦難にぶつかったりすると、〈どうやって死のうか〉とばかり考えるようになり、いつも心に湧いてくる思いは、「両親さえいてくれれば」という両親のいない寂しさでした。

高校を卒業して社会人となり、一人暮らしを始めました。それまで我慢していた生活から解放され、一晩で給料を全て使ってしまうくらい、荒れた生活を送っていたこともあったようです。

その様子を心配し、佼成会の会員だった夫のおばさんが青年部への参加を願い、教会活動に夫を誘いました。青年部での研修により、夫の人生は一変しました。講師さんの「今の自分は、前の世で約束し、自ら願って生まれてきたのです」という講義を聴き、生きる希望もなかった道から、「両親が今の自分の命を守ってくれ、この尊い教えに遇(あ)わせてくださったのだ。今のような生き方ではいけない」と心が変わりました。その時の気持ちを、「まるで卵が割れたようだった」と話してくれました。

その後、青年部活動に参加し、今までの生活とは生き方が大きく変わりました。同じく青年部員だった私と結婚し、3人の子供に恵まれました。家族のぬくもりも味わい、たくさんの人と出会い、生きる素晴らしさを味わいました。

しかし、病気との闘いで、今から30年前、50歳で多くの人に見守られ、両親のもとへ旅立ちました。以上が夫の被爆体験です。

夫も私も、原爆で大切な家族を失いました。私は、今、ここに、命があることを不思議に感じています。多くの人々の支え、出会いの奇跡、神仏の大きなお陰の中に生かされていることに、今は感謝でいっぱいです。

1945年8月6日、あの、きのこ雲の下で、地獄絵図そのものの惨劇が起こっていました。でも、私は生きています。いや生かされているのです。運が良かっただけでは済まされません。あの時、トイレから顔を出したままだったら、今がありません。また、母が下敷きになっていたら、今の命はありません。「平和のために命を使いなさい」と“使命”を頂いた命だと実感しています。そうして、今、私は修学旅行生や海外からのお客さまなど、広島を訪れる皆さんに、私の体験を証言しています。

さて、平和公園のほぼ中央にある原爆死没者慰霊碑、その碑文には「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と刻まれています。これこそ、ヒロシマの心だと思います。私の心でもあります。

世界の一人ひとりが平和を祈れば、犠牲となった皆さんの命が生かされると思います。平和とは、戦争のないことだけでなく、安心して生活ができ、笑顔になり、皆が幸せを感じる中にこそあるのです。反対に戦争とは、人間が人間でなくなることだと私は思います。人を殺しても罪にならないのが戦争です。絶対に戦争を許してはなりません。

日常生活を一瞬で地獄絵図に変えてしまう破壊力を持つ核兵器は、絶対に許してはなりません。亡くなった多くのみ霊を決して忘れてはなりません。広島の地に生まれ、住んでいる者の務めと思います。命をかけて守ってくれた母に代わって、また、恨みを祈りに変えた夫に代わって、平和への発信をしてまいります。

これからも命の尊さ、家族の大切さ、平和の大切さを、心を込めてお伝えしていきます。私の話を聞いてくださった皆さんも、今日から伝承者となって伝えていってくだされば、とてもうれしく思います。どうか、一日も早く世界に平和が実現しますように、今日、お集まりの皆さまと共にお祈りいたします。

(8月4日、立正佼成会大聖堂での式典から。文責在記者)

プロフィル

きしだ・くによ 1939年、広島市生まれ。NPO法人「ヒロシマ宗教協力平和センター」(HRCP)の平和学習などで被爆体験を語っている。