亡くなった多くのみ霊を忘れない 被爆体験証言者・岸田州代氏

夕方近く、ようやくたどり着いた避難所となっていた農家の庭先で、おむすびを一人1個ずつ頂きました。その時のおいしさは、今でも忘れることができません。その頃は食べるものが不足していて、白いお米のご飯は食べられず、お米が少し入ったスープのようなものしか食べられなかったので、本当にあの時のおむすびのおいしかったことを覚えています。

そこに、一人の若いお母さんがやって来ました。私はそのお母さんの姿を、生涯忘れることができません。そのお母さんは血まみれの顔で、誰が見てもすでに死んでいる子供を背負っていました。「ママ(ご飯)を食わしてやれんかった。誰か、この子にママを食わしてやってください。誰か。誰か」と、泣くでもなく、叫ぶでもなく、ただ繰り返し、一人ひとりにすがるのです。でも、誰もどうしてあげることもできないのです。みんな自分のことを守るだけで精いっぱいでした。

私が頂いたおむすびを一気に食べ終えた時、偶然、母のお友達に出会いました。母とお友達は、「よう無事じゃったね。良かった。良かった」と抱き合って喜びました。お友達は、「今から私の親戚のところに行くから、そこでこれからのことを一緒に考えよう」と言ってくださいました。それで、その人の家でお世話になることになりました。

翌日から、母は祖父と兄を捜しに、毎日、広島市内まで出掛けました。広島の街は爆心地から約2キロ以内が全壊、全焼となりました。まだ火の熱が残っていて、爆心地から1.5キロの自宅周辺には近づくことができませんでした。3日くらい経って、ようやく自宅に近づくことができました。しかし、全てが燃えて、灰になり、祖父のお骨を見つけることができませんでした。祖父がどのような状態で息を引き取ったか分かりません。私は願います。「どうか、祖父が生きたまま焼け死んだのではなく、火災に巻き込まれる前に亡くなっていますように」と。そして、今思うと、祖父を残して逃げた母の心の痛みは、一生消えることはなかったのではないかと思います。

それから、母は小学校に行ったまま帰らない兄を、次の日も次の日も捜しに出かけました。一週間経った8月13日、なんと母は兄を背負って帰ってきました。当時あちらこちらの避難所に収容されている人の名簿が、電柱や崩れた壁などに張り出されていました。その中に兄の名前を見つけた母は救護所となっていた幼稚園に向かい、兄を見つけたのです。

兄は被爆した時、爆心地から1.8キロの小学校の校舎の窓際に立っていました。半袖の上着と半ズボンだったので、熱線によって、直接肌が出ている右手半分と右足下半分、背中の一部を大やけどしました。

当時は薬がないため、私と弟でキュウリをすりおろし、傷口に塗りました。しばらくは冷たくて気持ちが良いのか、落ち着き、静かなのですが、すぐ熱のため、おろしたキュウリが乾燥し痛がります。そのため何度もキュウリを塗りました。私は、手当てをしながら、母と兄と一緒にいることの何とも言えない安心感に浸っていました。

長い間、兄の傷口は治らず、ウジがわきました。近所のお医者さんにウジを取り除いてもらうのですが、他に治療は赤チンという消毒薬を塗るだけです。そのうち、少しずつ傷も回復しましたが、やけどが治った痕が引きつり盛り上がり、いわゆるケロイドとなりました。また、なぜか3年くらい経った頃、やけどの傷がぐずぐず化膿(かのう)し始め、兄はまた苦しみました。私は原爆の影響だと思います。兄は夏になると、半袖で腕のケロイドが見えるため、友達から「離れて歩け」「近寄るな」と、いじめに遭いました。

一方、私も足に化膿したオデキが次々とできるため、〈これも被爆のせいなのかなあ〉と不安はいつも消えることはなく、何かあると〈もしかして〉と疑ってしまうのです。

戦争が終わって3年の月日が経った1948年、父が生きて帰ってきました。父は兵士として中国にいましたが、シベリアに抑留されていたのです。戦後、60万人もの日本人が旧ソ連の捕虜としてシベリアに連れて行かれ、過酷な重労働で6万人以上が亡くなったといわれています。父は92歳で亡くなるまで、戦争のことは何も話しませんでした。でも亡くなる少し前、「戦争はいけん。二度とあってはいけん」と言いました。これが父の心からの叫びでした。

【次ページ:原爆孤児の夫の体験】