亡くなった多くのみ霊を忘れない 被爆体験証言者・岸田州代氏

1945年8月6日、原爆が落とされ、私は、被爆しました。これから、私がその時に見たこと、それから、私の夫の被爆体験をお話しします。

私は当時5歳。爆心地から北へ1.5キロの広島市横川町の自宅で被爆しました。私の家族は祖父65歳、母34歳、兄8歳、弟4歳の5人でした。36歳の父は徴兵され中国に行き、広島にはいませんでした。

原爆が投下されたのは午前8時15分ですが、その前に、午前7時ごろ、警報が鳴り、家族全員で防空壕に隠れました。約30分後に警報が解除され、部屋に戻りました。小学2年生の兄は登校し、自宅には祖父、母、弟、私の4人がおりました。

8時15分の少し前、私はトイレの中にいました。警報は解除されていたので、母が不思議そうに、「おかしいね。まだ飛行機の音が聞こえる」という声が聞こえました。

それまで戦争の意味もよく分からない私は、太陽に反射してギラギラと光る銀色の飛行機に憧れを抱いていました。ですから、母の声を聞いて「直接見えるかもしれない」と、トイレの窓から外を見ました。でもどこにも見当たらないので、「もう飛んで行ったのかな」と残念に思って、身をかがめた瞬間、「ドーン」という地響きの後、視界が真っ暗になりました。

どれくらい経ったのか、気がついた時には、周りの土壁が崩れ、私は生き埋めになっていました。圧迫感と息苦しさの中、頭を動かすと顔が半分出ました。大声で「助けて! お母ちゃん」と叫ぶと、母は、すぐに駆けつけ、私を掘り出し、引き上げてくれました。

その時、家の2階部分が丸ごと吹き飛ばされていて、階段からは空が見えました。幸い、柱が1本倒れなかったので、少しの空間ができて、そこにいた祖父と母と弟は奇跡的にけがもせず、みんな無事でした。いつもは2階にいる祖父は、たまたま朝食のため1階に下りていて助かったのです。

でも、祖父は右半身が不自由だったため、常日頃から「何があっても、自分はどこにも逃げない」と言っていました。この時もそうでした。母は「一緒に逃げよう」と言いましたが、祖父は「私はいいから、逃げなさい」と母を急き立てました。母は仕方なく、弟を背負い、私の手を引いて、祖父に「また後で必ず戻って来るから」と言い、外に出ました。その瞬間、玄関も崩れ落ち、出口がふさがりました。私たちは祖父に二度と会えませんでした。

私は逃げる時、足元に、いつも遊んでいたクマのぬいぐるみを見つけ拾おうとしたら、「そんなもの、捨てなさい」と母の顔色が変わりました。私は恐ろしくなり、仕方なく置いて、母の手をしっかりと離さないように必死でついていきました。

外に出た時、通りには避難する人の流れがありました。「いつもの避難訓練とは違う、大変なことが起きたんだなあ」と思いました。

避難する人は皆、裂けて裸同然で、皮膚が焼けただれた人が大勢いました。私は母の手を離したらもうおしまいのような気がして、母の手を必死に握って、郊外へと歩き続けました。

逃げて行く人々は、いったい何が起きたのか、誰も知らないまま、歩き続けます。時々、誰かに「こっちに行っては危ない」と行く手をさえぎられると、反対方向に、また、ぞろぞろと歩くのです。

道端はがれきの山で、近くまで火が回り、皆、裸足なので、足にガラスの破片でけがをしてやけどを負っていました。私も足にガラスが刺さっていましたが、痛みを感じるゆとりはありませんでした。

30分くらいして、誰かが「雨だ!」と叫びました。それは、初めて見る黒い雨でした。私たちは道端の畑にあったムシロを見つけ、一人ずつ頭にかぶって座り込み、雨がやむのをじっと待ちました。

その時、目の前の畑にあった真っ赤なトマトに、タールのような真っ黒でネバネバとした水滴が落ちているのが目に入り、気持ちが悪くなりました。鮮やかな真っ赤なトマトに流れていた黒い滴が目に焼きついて、その不気味な光景は、今も覚えています。ですから今も大きなトマトは食べることができません。

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