食から見た現代(27) 犬が海の王者・サメをパクリ!? 文・石井光太

写真はすべて石渡商店提供

中華料理で用いられる「フカヒレ」は、サメのヒレを加工した高級食材だ。姿煮やスープとして食べたことのある人も多いだろう。

フカヒレは加工に手間の掛かる食材だといえる。漁港に水揚げされたサメは、業者によって尾ビレや背ビレが切り離され、皮、肉、脂、血が丁寧に取り除かれる。それを数日から数週間天日干しにして乾燥させた後、調理人が水に数日つけてもどして不純物や臭みを除去してから、姿煮やスープなど料理に合わせて処理をする。

サメの水揚げ量が日本でもっとも多いのが、宮城県気仙沼市である。日本全国の9割を占めている。日本全国にフカヒレの加工業者は10社ほどあるが、そのうち9割が気仙沼市に本社を持つ。

石渡商店はその一社であり、70年の歴史を持つ老舗企業だ。この石渡商店が、2022年に発売し、わずか4年で売り上げの十分の一を占めるまでになった珍しい商品がある。それがサメ肉を用いたペットフードだ。

気仙沼市もこれをサステナブル商品として認め、ふるさと納税に加えるなどして後押ししている。サメ肉を使用した珍しいペットフードは、今なぜ大きな注目を集めているのか。

 

石渡商店のオンラインショップでは、フカヒレやその関連商品と共に、「UMINO PET」というシリーズ名の付いたペットフードが並んでいる。総合栄養食の他に、サメのジャーキー、フレーク、軟骨スティックといったおやつもある。

購入者の多くは、インスタグラムをはじめとしたSNSで評判を聞きつけたペットの愛好家だ。ペットのトリミングサロンの経営者が噂(うわさ)を聞きつけ、店舗で販売したいと連絡してくることもある。顧客の4割が40代で、7割が女性だという。

サメ肉を使ったペットフードはコラーゲンやコンドロイチンといった栄養素が非常に豊富だ。それに加え、この業界ではサメ肉を使った商品開発は長年の課題だった。

三代目社長の石渡久師氏(45歳)は言う。

「フカヒレは世界中でその味が認められた食材ですが、サメの肉の方はそうではありません。アンモニアのせいで臭いがきつく、味自体もほとんどないのです。ただ、一匹のサメから取れるヒレの割合は、10%程度で、残りの90%がサメ肉の部分になります。フカヒレ加工業者にとっては、この残りの肉の部分をどのように利用するかが大きな課題でした。そして私がベストだと思って開発したのがペットフードだったのです」

海外ではサメのヒレだけを取って残りを海に投棄することが公然と行われ、批判の声が上がったこともある。サメ肉の利用法は、日本だけでなく、世界全体の積年の課題だったのである。

 

石渡商店の創業は、高度経済成長期の1957年だった。

気仙沼市でフカヒレ産業が広まったのは、そのはるか前の江戸時代の終わりだった。この地の商人が毛皮の取引のために神奈川県の横浜へ行ったところ、清国(中国)へのフカヒレの輸出が商売になると知り、気仙沼にもどって事業をはじめたのがきっかけだったといわれている。

明治時代には、気仙沼の名前はフカヒレの産地として全国に知られるまでになった。この頃から、フカヒレ業者は味の劣るサメ肉の用途に頭を悩ませ、すり身にして「ちくわ」や「かまぼこ」などに加工していた。そのため、フカヒレ産業の拡大と共に、気仙沼にはちくわやかまぼこを扱う業者も増えていた。

このような気仙沼のフカヒレ産業が下火になったのは、昭和に入って間もなくだった。1929年(昭和4年)に気仙沼大火と呼ばれる大火事が起きて多くの工場や商店が焼失し、その後に太平洋戦争が勃発したことで衰退したのである。

再び、気仙沼がフカヒレの産地として脚光を浴びるのは戦後のことだ。この頃、気仙沼では遠洋漁業推進法や船や設備の技術革新に後押しされてマグロ漁が盛んになっていた。この漁の中でマグロに紛れて水揚げされるようになったのが、同じ海域に生息するサメだった。マグロ用の罠(わな)にサメがかかったのである。

これに商機を見いだしたのが、石渡商店の創業者であり、現社長の祖父にあたる正男氏だった。正男氏は神奈川県川崎市の出身で、大手食品企業で研究員として働いていたが、気仙沼でサメのヒレが水揚げされて捨てられていると聞き、一念発起してフカヒレの事業をはじめた。研究員として食品加工にも詳しかったことから、事業は瞬く間に軌道に乗った。

それから会社は二代目、三代目と代替わりし、フカヒレ食品加工方法の特許を取ったり、食品審査会で受賞したりするまでになった。フカヒレ以外のビジネスとして、ゴルフ場の開発もはじめた。

だが、2011年3月11日に起きた東日本大震災によって、順風満帆だった会社が突然危機にさらされることになる。大津波によって工場が大きな被害を受け、稼働できなくなったのだ。

開業以来最大の困難の中で、陣頭指揮をとったのが三代目の社長の久師氏だった。この頃、石渡商店では自社で冷凍したフカヒレを中国やインドネシアへ送って加工をし、それを再び日本にもどしてサイズを整えて商品化していた。海外での加工にかかる期間はおおよそ半年。つまり、日本から発送したフカヒレは、6カ月後に日本にもどってくる。

久師氏は、被災して途方に暮れている従業員を見て、何としても事業を継続しなければならないと心に決めた。そして弟の自宅のガレージを改築して臨時の工場を作り、海外の拠点からフカヒレを取り寄せてサイズを整えて商品として出していったのだ。これと同時に、新工場の建設にも着手した。震災からわずか2カ月で設計をはじめ、そこから半年後には自社で所有していたゴルフ場の土地に新工場を新設したのである。

 

久師氏の迅速な決断のおかげで、数年のうちに石渡商店の従業員は震災前より増加した。その頃に久師氏が着手したのが、サメ肉を使った新しい商品の開発だった。石渡商店でもサメ肉はかまぼこなどを製造する業者に卸してきたが、そもそも食材として成り立たない材料なので高値では売れず、利益はゼロに等しかった。

そのため、同業者の中にはサメの肉をフライにしてタルタルソースをつけてサンドウィッチにするなど人の口に合うようにして販売していたが、久師氏にはどこか納得できない気持ちがあった。