草花にたとえていえば、現在の自分は茎です。枝葉や花は子どもです。そこになる実は孫であり、その実から曾孫(ひまご)、玄孫(やしゃご)もできるわけです。ところで、わが身である茎の元をたどってみれば、必ず根があります。つまり、ご先祖さまのお陰で自分があるのです。
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聞き上手の人は、相手の話すことの本質に耳を傾けられる人です。相手がこちらのためを思ってほんとうのことをいってくれるのですから、それをまっすぐに聞くとたちまちに、仏さまから大きなご守護がいただけるのです。それが、聞き上手の功徳です。
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「無量義経(むりょうぎきょう)」の「十功徳品(じゅうくどくほん)」に、「愛著(あいじゃく)ある者(もの)には能捨(のうしゃ)の心(こころ)を起(おこ)さしめ」とあります。「能捨」というのは、「能(よ)く捨てる」ということです。さまざまな欲や、自己中心にしがみついていた手をパッと開いて、それまで大事にしていたものを捨ててしまう。こうして、「とらわれ」から解き放たれた人が、菩薩としての喜びをいただけるのです。
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ただ、自分が大安心をもって生きるだけでは、「菩薩」とはいえません。まわりの人たちの幸せを願い、そうした行ないを実践してこそ「菩薩」、すなわち真の在家仏教者といえるのです。
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松尾芭蕉(まつおばしょう)の句に、「よく見れば薺(なずな)花咲く垣根かな」とあります。ふつうの人なら「つまらぬもの」として見過ごしてしまうような草花に、芭蕉は尊い「いのち」を見届けているのです。表面の様子だけを見るのではなく、その奥にある尊いものに、芭蕉は手を合わせているのです。
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私たちは何かにつけて「おれが、おれが」「私が、私が」といって、自分がいなければ何一つできないかのように思いがちですが、果たしてそうでしょうか。大きな目で見ると、みんなで支え合う輪のなかに一人ひとりがいるのです。だれしも、人さまのお陰さまや、ご恩をいただいて生活しているのです。
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人間はだれ一人として、自分だけで生きていけるものではありません。多くの人さまに支えられ、また自分も人さまを支えることによって、人間社会が成り立っているのです。それは自然の成り立ちであり、支え合う関係のなかで、毎日のいとなみがあるのです。
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私が小さいころ、祖父がよく言い聞かせてくれたのは、「世のため、人のために、役立つ人間になるんだぞ」ということでした。人のために役立つ人間が尊いのは確かです。そして、人のために生きることほどありがたく、楽しいことがほかに見当たらないのも確かなことなのです。
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比叡山(ひえいざん)に延暦寺を開いた伝教大師最澄(でんぎょうだいしさいちょう)に、「一身弁(いっしんべん)じ難(がた)く、衆力(しゅうりき)成(じょう)じ易(やす)し」というお言葉があります。大きな仕事を成功させようとすると、自分一人の力では限界があると知らされます。大勢の力を合わせると、それが容易にできるのです。
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