気づきを楽しむ――タイの大地で深呼吸(37) 写真・文 浦崎雅代(翻訳家)

もう一つ、ハッとさせられる言葉があった。「結果というのは、非常に多くの縁の関わり合いによって生じるものであり、自分の思い通りにできるものではない」という内容だった。まさにそれは、無我であることの証し。私たちはつい、「自分が頑張れば結果がついてくる」と思い込む。しかし、自分の頑張りは選択できることの一つにすぎず、他の作用が強く働けば、結果が思い通りにならないことは何ら不思議ではない。自然に関することならなおさらだ。抽象的には理解していても、いざ“自分ごと”となると、思い通りにしたくなる。そうした自らの心の癖を改めて教えられた。

隣の畑の火事が消し止められた翌日から、私は日課にしていた夕べの歩行瞑想を再開した。道の傍らには、黒く焦げた跡が残る。そして“防波堤”となってくれた木々の痛々しい姿。心に悲しさが込み上げ、またそれに気づきながら、一歩一歩、今ここに戻って歩く。毎日、残念な気持ちが生じていた。

それから10日ほど経った時、ふと緑色があるのに気づいた。黒く焼け焦げていた木々から、新芽が出ていたのだ。〈あれ? いつの間に?〉。改めて見渡してみると、そこかしこに緑色の草が生えている。私はそれまで、黒い部分しか見ていなかった。私が悲しんでいた間にも、確実にいのちは変化していた。たとえ、もうだめだ、と思ったとしても、それも私の勝手な思い込みにすぎず、それすら思い通りにはならないのだと気づいた。

火事から10日後、焼け焦げた地面に緑の草が

か弱く小さな芽。それを見た私の心に、喜びが生じてきた。その喜びをまた見守りながら、気づきを取り戻す。一歩、そして一歩。その歩みは続いている。



 

プロフィル

うらさき・まさよ 翻訳家。1972年、沖縄県生まれ。東京工業大学大学院博士課程修了。大学在学中からタイ仏教や開発僧について研究し、その後、タイのチュラロンコン大学に留学した。現在はタイ東北部ナコンラーチャシーマー県にある瞑想修行場「ウィリヤダンマ・アシュラム」(旧ライトハウス)でタイ人の夫と息子の3人で生活している。note(https://note.mu/urasakimasayo)にて毎朝タイ仏教の説法を翻訳し発信している。