弱小チームから常勝軍団へ~佼成学園高校アメリカンフットボール部「ロータス」クリスマスボウル3連覇の軌跡~(3) 文・相沢光一(スポーツライター)
「優勝できなかったら、アメフト部へ来い」
しかし、スポーツは続けたいと思いサッカー部に入った。野球一筋だったため、サッカー経験はない。しかも、1年遅れの入部だ。並の選手なら練習についていくのが精一杯だろう。だが、実力を買われてすぐに試合に出るようになり、3年時は副キャプテンを任されるまでになった。類まれな運動能力のもち主だったことがうかがえる。
さらにつけ加えれば、その代の佼成学園中学サッカー部は強かった。杉並区大会のベスト4まで勝ち進んだという。それがアメリカンフットボールとの縁につながる。
「区のベスト4まで行けたのは運動能力が高い選手がそろっていたからでもあります。そのチームを、私の担任でもあったアメリカンフットボール部の天野博監督が見ていて、私を含めた主要メンバーに“高校ではアメフト部に入れ”と言ってきたのです」
無茶な誘いといえる。メンバーはサッカーが好きで部活動をしているわけだし、大会でも好成績を残している。なにより、アメリカンフットボールがどんなスポーツかさえ知らない。転向する理由はなく、誘いに応じる選手はいなかった。
「すると、その先生は妙な提案をしてきたんです。“都大会で勝ち進んで優勝したら高校でもサッカーを続け、国立競技場を目指せ。だが、優勝できなかったら、アメフト部に来い”と。冷静に考えると、こんな条件を出されること自体、理不尽ですよね。でも、向こうは先生でこちらは中学生。うまく言いくるめられて、そのわけの分からない条件を受け入れてしまったんです(笑)」
サッカー部はその年の優勝校に惜敗し、敗退した。約束通り、サッカー部のメンバーの多くがアメリカンフットボール部に入部することになった。
「部はキャプテンだった関孝英さん(現・ロータスディフェンスコーチ)をはじめ、面倒見のいい先輩ばかりで、いい雰囲気でした。ただ、練習を積み試合に出るようになっても、プレーをする喜びはあまり感じられませんでした。強豪だった日本大学の付属校と対戦する時などは恐怖が先に立つんです。まずは部員の多さに圧倒されます。個々の選手を見ても、体はでかいし、強そうだし、上手そうにも見えるし。そんな心理状態では試合をしても勝負にならないわけです」
実際、大差で敗れることがほとんどだった。これでは部活へのモチベーションが上がるはずがない。だが、ある出来事がチームを変えた。
「高2の春、東松先生が体育の教員として赴任され、ロータスのヘッドコーチを務めることになったのです」
東松氏は駒場学園、日本体育大学を経て、当時は社会人のクラブチーム・シルバースターでRBとしてプレーしていた。
「その東松先生がコーチになってすぐ、僕らの練習を見ているだけでなく、オフェンスチームに加わったことがありました。プレーが始まり、クオーターバック(QB)からボールを受け取った東松先生は、ディフェンスのギャップ(穴)を衝いてスーッと抜けていってしまったのです。私はディフェンスチームにいてタックルに行ったのですが、体に触れることさえできなかった。体のキレ、ステップの巧みさ、ブロックやタックルに来る相手の体勢や重心の位置を見抜く目。すべてにおいてプレーの次元が違う。これがトップレベルのRBかと、衝撃を受けました」
そう感じたのは小林監督だけではなかった。練習に参加していた部員たちは全員、東松氏が見せたパフォーマンスに目を丸くした。
「東松先生は部員たちが練習に臨む姿を見て、モチベーションに欠けていること、アメリカンフットボールを好きになりきれていないことを感じ取ったのではないでしょうか。それを覆すために自らが見本を示し、刺激を与えて関心を呼び起こそうとされたのだと思います」
人があるスポーツを好きになる、あるいはその競技の選手に憧れる時、そこにはきっかけとなる感動がある。それはトップ選手が想像を超えたプレーを見せたり、それが劇的な勝利に結びついたりする瞬間に生まれる。東松氏は、それをロータスの部員に対して実践して見せた。アメリカンフットボールに一途に打ち込めば、この域にまで達することができると。
事実、その出来事があった後、チーム内の空気は変わったという。アメリカンフットボールに対する興味は高まり、向上意欲が生まれた。また、東松氏のコーチングを受ければ、レベルアップができると思えたという。