気づきを楽しむ――タイの大地で深呼吸(16) 写真・文 浦崎雅代(翻訳家)
リアル一休さんはタイにいた!(後編)――「なくても大丈夫!」が育まれる環境
タイのリアル一休さん、沙弥(しゃみ=未成年の僧侶)による一時出家の醍醐味(だいごみ)は、「離れる」ことによる学びだ。楽しく、便利で、豊かな生活から、一時的にでも離れるメリットは大きい。
タイは発展途上国。読者の方々の中には、かつてのイメージそのままに、貧しい国という印象を持つ方もいるかもしれない。だが、その実態はすでに変わりつつある。ここ数十年、タイの経済発展は目覚ましく、バンコクなどの都市部では、もう日本と同じような物質的豊かさを享受している人が大勢だ。子供たちも例外ではない。ハンバーガーやポテトフライなどのファストフードを好み、スマホを手に「YouTube」や「LINE」を楽しむ。日本のアニメーションの情報を、一般の日本人以上に知っている子供たちも、もはや珍しくはない。楽しく、便利で豊かな生活は、もはや彼らの当たり前になりつつある。
スカトー寺で一時出家をした沙弥たちの多くが、そうした暮らしに馴染(なじ)んでいる子供たちである。もちろん彼らは、お坊さんの姿を日常的に目にしてはいるだろう。しかし、いざ自分がお坊さんになるという体験には、戸惑いがあるに違いない。出家はライフスタイルが変化することであるし、ましてやバンコクから遠く離れたタイ東北部にあるスカトー寺は森の中。初めての田舎体験という子も多い。
出家前に、住職のパイサーン師からの説法がある。師はそうした子供たちの心に寄り添うように、これまでの豊かな生活と出家生活との違いを語る。ここでは自分の好きなものを買って食べるのではなく、托鉢(たくはつ)で食を頂くこと。テレビもネットもないシンプルな暮らしをしてみること。自然と触れ合い、仲間と協力してプログラムを楽しむこと。そんな心構えを伝えてくれる。
さらに子供たちが直面するであろう心の苦しみについても、師は言及する。不便さへの不満。それも苦しみである。ただそれらを「我慢して耐えろ!」とは説かない。不満が生じても、それは心の症状の一つ。そのことに気づき、自らを高めよう! という姿勢だ。寺での修行というと、“スパルタ系”を連想する人が多いだろうが、ここでは“気づき系”だ。便利で、思い通りになる生活から離れてみると、徐々に心が環境に慣れてきて調整が取れてくる。するとだんだん「あ、この生活も大丈夫だ」という感覚になる。