栄福の時代を目指して(22) 文・小林正弥(千葉大学大学院教授)

天皇制の理念と目的――その本質とは何か?
さて、それでは天皇制の理念や目的とは何だろうか。もともとの天皇制において、これらは、神道の宗教的な考え方と結びついていた。「祭り主」として、「公ありて私なし」という精神で、「国平らかに民安かれ」と祈ることであり、公正無私の高貴なる精神によって、献身・奉仕することである(『神社と政治』角川新書)。公共哲学の用語では、これは「無私の公共」に相当し、通常人には求め難いが、卓越した「公共」精神の理想に相当する。
現在の憲法において、天皇は「国民統合の象徴」となった。けれども、天皇には人権は認められていない。歴史的に「公共」そのものたるべき無私の存在とされてきたように、今でも自由に私的な生き方をする権利はないのである。
天皇・皇族方は国民統合の象徴として、被災地への慰問、戦没者追悼、国民との交流、国際親善などを通じて、平和憲法に基づく平和的なメッセージを発信しつつ、特定の政治勢力や思想に偏ることなく、日本というナショナル・コミュニティー全体に奉仕する公共的役割を果たしてこられた。上皇陛下も天皇陛下も、「国民の幸福を常に願う」「国民と苦楽を共にする」「平和を祈る」などの「おことば」で、その精神を示してこられたのである。
そして、必ずしも宗教的な祈りではなくとも、広島・長崎の平和記念式典・平和祈念式典や全国戦没者追悼式などでは追悼の意を表されて、お言葉において平和への祈念を示されている。これは、特定宗教とは関係なく、どのような宗教とも両立するし、非宗教的な祈りとも理解できる。平和憲法の核心に直結するし、象徴天皇制とも齟齬(そご)はない。政治の基底に存在する宗教的ないし精神的要素なので、政教分離に抵触せず、「市民宗教」(ロバート・ベラー)と言うことができるものである。
これらの役割の核心は、政治権力の行使とは関係がなく、国民(くにたみ)への奉仕と平和への希求という公共性にある。これは、後述するように、「まつりごと」を行うという天皇の職務の本質に基づいている。その姿勢は徳義共生主義が重視する倫理的公共性とも深く響き合っている。生成変化する歴史の中で、ここには天皇制の変わらざる理念や目的が現れているのではないだろうか。
天皇・皇族方の「務め=奉仕」の結果、国民から天皇は信頼されるようになっている。同時に、そのような生き方・考え方から、自ずと気品や品格が漂い、尊貴な雰囲気が醸し出されている。つまり、無私から来る、人格的な徳がここには存在していると拝察できる。儒教では、「君子」と言われるような有徳者が治めることが理想とされてきた。この点で天皇制は異なる。しかし、何らかの尊貴な精神性が想定されてきたという点では共通性がある。
このように考えると、戦後の象徴天皇制における理念・本質とは、無私の公共性、民の幸福と平和への祈り、そしてそれらを体現する尊貴な徳性である。前二者は制度の目的でもあり、徳性はそれらを実現する人格的基盤をなす。まとめれば「公共性、幸福平和祈念、徳性」である。
制度としては、象徴天皇制において、宗教的な祈りや神道は天皇制とは公的に分離した。もっとも、天皇自身が私的に祈ることは可能だから、皇室祭祀(宮中祭祀)において国民のために真摯(しんし)に祈っておられるのかもしれない。これは法的には私的ながら、内容的には「民安かれ」という象徴天皇の「公共的な祈り」である(拙著『神社と政治』、角川新書、第10章)。それが、尊貴な気品に現れている可能性もある。いずれにしても、「国民統合の象徴」とされている存在は、無私の公共性と幸福平和祈念、それらに自ずと伴う尊貴な徳性を体現しているのである。
血統と公共性のジレンマ
もう一つ、本質として考えられるのが、血統である。7~8世紀以降については、女系継承が行われたことを示す実証的証拠はなく、皇統譜上も女系天皇は存在しない。これらに基づいて、男系継承が主張されて皇室典範が改正されたのである。日本文化に「家」の発想は根強いから、「天皇家」が政体の中心にあるのは、この文化的伝統を反映している。
この観点を前提にすれば、前節で述べた理念と「男系男子」が両立するのが理想だろう。ところが、皇位の継承問題が生じているのは、この二つの要請の間に緊張関係が生じているからだ。もし両立しなければ、天皇制を維持するためには、優先順位を考えるほかない。本質的理念を優先するのならば、女性・女系天皇論が有力になる。天皇、皇后両陛下の長女、愛子さまを天皇にと期待する声が国民に多いのは、愛子さまに、天皇家にふさわしい気品や人格、つまり人徳を感じるからだろう。
他方で、男系男子という血統を優先すれば、旧宮家からの養子の男児による皇位継承論が生まれてくる。しかし、一般人だった人の孫を天皇とすれば、「無私の公共」が維持できずに天皇位が私的な存在に変質してしまうという憂いは免れず、尊貴な徳性も維持できるかわからない。麻生氏による「皇室乗っ取り」といった厳しい批判が強くなっているのは、皇位の私的操作への嫌悪を人々が感じるからだろう。野田内閣時の報告書で、養子縁組による「宗系紊乱(そうけいびんらん)」の危険が指摘されていたが、恐るべきことに、その懸念通りの展開になっているのだ。
このジレンマを解決するためには、双方の要請を満たせる方法を見つけることが望ましい。もともと歴史的に女性天皇が存在したのだから、愛子天皇の誕生までは天皇制の本質にとって支障はない。さらに、天照大神というに女神を天皇家の祖と考える神話まで遡(さかのぼ)れば、女系天皇にも問題はないという解釈も存在する。
このような議論も念頭において国民的な熟議を行い、双方の要請を可能な限り満たす方法を考え、それが無理な場合に備えて優先順位を国民全体で考えていくべきだろう。
象徴天皇の「務め」――「まつりごと=奉仕事」という職務の生成
コミュニタリアニズムは、コミュニティーの歴史や文化、伝統をアイデンティティー形成の要として重視する。しかし、伝統を固定化して変化を拒む右派思想とは異なる。必要なのは、歴史や伝統の本質を尊重しながら、公共的な熟議を通じて伝統そのものを生成し、未来へ継承していくことだ。これが、生成的本質主義に基づく徳義共生主義の考え方だ。
この観点から見れば、皇室典範をめぐる議論においても、本来問われるべき内容は、歴史的伝統としての天皇制について、象徴天皇制の公共的な理念や本質と目的をどのように理解し、それを将来へどのように継承・生成していくかという点なのである。
私は『神社と政治』(角川新書)において、天皇制も含めて「神道と政治」の関係をコミュニタリアニズム的な公共哲学の観点から論じた。そして、天皇のなす本来の「まつりごと」とは「奉仕事」であり、神の御心に従って他者の幸福のための奉仕・献身することだと論じた(314-315頁)。
この観点からすれば、上皇陛下の退位における「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」の核心は、被災地の見舞いなどの「民の公共」に関する象徴的行為も天皇の「務め」として位置付けて、それが果たせなくなれば天皇は退位するという考え方を打ち出したことである。この「務め」を天皇制の目的として位置付けたわけだ。
これは、国民統合の象徴として日本国民全体へ語りかける公共的メッセージであった。そして巡幸などと表裏の関係にある「国民のための祈り」、つまり「民のための公共的な祈り」を天皇の「まつりごと」としての奉仕とする論理が示されている。これは、日本における新しい市民宗教の起点となり得る(拙論「神道における公共性――改憲論 対 生前退位メッセージ」『現代思想』2017年臨時増刊号、93-102頁)。そこには、「民」に奉仕する倫理的な公共性が体現されていたからである。
これらの点で、上皇陛下の生前退位と「おことば」は、歴史的に新しい要素を含んでいた。けれども、それは「まつりごと=奉仕すること(奉仕事)」という天皇制の本質と通底しており、公共的な祈りも含めて、今日において本質を新しい形に現実化させるものでもあった。だからこそ、それは今日の時代的条件にふさわしい「おことば」であり、象徴天皇制の目的、歴史の中に生成し続ける本質を体現するものだった。それ故に、新しい時代の「市民宗教」の起点たり得るものだったと思うのである。
政体の中心に、精神性に関わる制度が歴史的に存在するのは、日本の大きな特色である。象徴天皇が権力行使に関わらないからこそ、「国民統合の象徴」という制度は、権力や利害に左右されない倫理的公共性が、権力政治よりも上位に位置付けられる規範的価値として必要であることを示している。このように、政治権力を超えた精神的・倫理的次元の重要性を、伝統と儀礼によって象徴的に可視化する仕組みを政体の中心に置いている点は、他国にはあまり見られない日本の特色であり、独自の優れた政体として評価できよう。
しかも、その本質の中に、民の幸福とともに平和への祈念が含まれているのは、平和憲法を持つ日本の誇りと考えるべきではないだろうか。権力政治を超えた倫理的公共性と、国民の幸福と平和への祈念こそ、天皇制の理念にして本質であり、今日における天皇制の目的と見なすことができるだろう。
皇位継承こそ、この伝統と本質を堅持するための最重要事である。よって、皇位継承も、このような「おことば」を踏まえて、まさしく国民的な熟議を通じて人々が理念や本質、目的を探求し、時代の展開に即した制度の生成について衆知を集めて議論していくべきだろう。





