利害を超えて現代と向き合う――宗教の役割(72) 文・小林正弥(千葉大学大学院教授)

画・国井 節

「ポジティブ」な感情と政治

コロナを感染法上の5類にすると政権が決め、第8波が収まったので、あたかも感染症問題は収束したように社会は動き始めている。この大きな狙いは、4月の統一地方選挙を前にして、感染症問題を乗り越えたという明るい雰囲気をつくり、支持率が低迷した政権を浮揚させようということかもしれない。

ポジティブな気運が社会に醸成されることは、本来は望ましいことだ。この連載で折に触れて言及してきたように、ポジティブ心理学は、明るい感情(ポジティブ感情)が健康や仕事、学業などに良い影響を及ぼす傾向があることを科学的に実証している。「病は気から」「笑う門には福来たる」というような諺(ことわざ)は、真実を反映していたのである。

だから、コロナ禍によって人々が暗い気持ちになれば、健康や経済に悪影響が及びかねないし、逆に政策によって明るい気持ちが増えればそれらが好転する可能性を期待できる。よって、ポジティブ感情が増える政策を行うことは、望ましい。

幻想政治の陥穽

安倍政権以来、例えばアベノミクスによる超金融緩和政策によって、お金を借りるのを容易にして景気を良くしようという政策を取ってきた。これによって経済がうまくいっているという印象を人為的に作り出し、ポジティブなムードを醸成して政権を維持してきたのである。コロナ感染症が目に見えないようにするという方針も、このような手法の一環だろう。

ところが、この手法には大きな落とし穴がある。もし現実から目を逸(そ)らして、実際には大きな問題があるのに無視していれば、いずれ客観的な結果が現れて失敗する。ある会社の財政が危機的な状況に陥っているのに、経営陣が株主向けに業績好調と見せかけ続け、社員たちが現実を知らずに仕事を続けたとしよう。ある日、突然経営破綻が生じても不思議ではない。現実軽視の報いを受けるわけだ。

政治がこのような手法を用いれば、真実を知らない人々は「集団幻想」に陥り、やがては不幸が生じてしまう。これは、いわば「幻想政治」の帰結である。コロナ問題であれば、感染症が再び拡大して死者や感染者が増大してしまうことになる。

日本経済で浮上しているのも、簡単にいえばアベノミクスは「幻想経済」だったのではないかという疑いだ。日本銀行の黒田東彦(はるひこ)総裁は、2015年6月にピーターパンの物語から「飛べるかどうかを疑った瞬間に永遠に飛べなくなってしまう」という言葉を引用して「大切なことは、前向きな姿勢と確信です」と述べた。要は、ポジティブな姿勢を示したわけだ。

ところが退任前の最後の会合後の会見では、これはスタッフの思いつきで入れたもので自分はそういうことに詳しいわけではないと述べた。ここには、自分のポジティブな発言について自信の揺らぎが見える気がする。それでも、アベノミクスは正しく金融緩和は成功だったとして、国債などの資産の買い入れを「負の遺産だと思っていない」という楽観的な見方を示した。この真否は、時とともに明らかになっていくだろう。

金融緩和によって企業などがお金を借りて経済成長を実現するという政策は、ごく単純に一家の家計になぞらえて言えば、世帯主がその信用によってお金を借り、家族がそれを使って豊かな生活をするのと似ている。これによって一家が真に成功して収入が増えれば借金を返すことができる。しかし、さほど収入が増えずに借金が増大し続ければ、どこかで破綻することは必定である。それまで家族が財政状況を知らずに自分たちは豊かだという幻想に浸っていれば、それは「幻想家計」ということになる。

これと同じことが国家や中央銀行に当てはまるかどうかには大論争があった。とはいえ現実に、国債などを日銀が大量に買い上げて金融を緩和することによって、これまで景気が良くなっているように見えていたが、その副作用として、今や日銀自体の財務状況が悪化して信用が落ちてしまうという危険が生じている。円安や物価上昇にもかかわらず、金融緩和政策を修正して金利を上げるとこの問題が顕在化してしまうので、政策の修正が困難なのである。

つまり、技術革新などによる実体的な経済的進展が少なく、現在は日銀自体の信用低下が懸念されている。とすれば、アベノミクス下の日本経済は「幻想経済」だったのではないかという疑いが真実味を帯びてきたわけである。

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