共生へ――現代に伝える神道のこころ(22) 写真・文 藤本頼生(國學院大學神道文化学部教授)

各地に残る馬を用いる神事

祭礼の折に馬が氏子区域を練り歩く行事は、交通事情の変化や牛馬の飼育の減少などさまざまな社会情勢から衰退してきたが、その痕跡を示すものの一つとして、岡山県津山市二宮に「髙野神社神馬之霊碑」と銘のある神馬塚を挙げておこう。

この神馬塚は、旧美作国(みまさかのくに)二宮とされる髙野神社の神馬を弔うために建立されたもので、同社では断絶してしまったが昭和十年代(一九三五~一九四五年頃)までは、秋の例大祭の祭礼の折に神馬の背に御幣(ごへい)を搭載して、宇那堤森(うなでがもり)と呼ばれる神社の御旅所まで御神幸を行っていた。この御神幸に携わった神馬に感謝すべく、氏子らによって築かれたのが、神馬の供養塚(弘化二年、元治元年、明治十五、三十九年の四基と年代不明の三基を合わせて計七基)である。この神馬塚は平成十三(二〇〇一)年に国道53号線津山バイパス工事のため、塚を整理することとなり、由緒を記した石碑とともに二宮美和山墓地付近に新たに「神馬之霊碑」が建立された。この例は戦前期とはいえども、神輿を神の乗り物として御神幸に用いるようになっても、御幣を神霊の依代(よりしろ)として神馬の背に搭載して神社の祭礼に用いていたという証左である。馬に関わる神事の多い京都府や奈良県などの古社では、例えば賀茂御祖(かもみおや)神社(下鴨神社)の御蔭祭(みかげまつり)のように、御蔭山から神霊を迎えるために錦蓋(きんがい)を馬の背に覆うが、これも神が馬の背に降り立つことを示している。それゆえ、地方の古社の一つである髙野神社においても神馬に御幣を載せていたという点は大変興味深い。

盛岡八幡宮では、例大祭(盛岡秋まつり)の際に、南部流鏑馬の本馬場が境内に設けられる。コロナ禍の影響で一昨年、昨年と中止になっていたが、今年、3年ぶりに奉納された(写真・筆者提供)

馬を用いる神事には、約930年前の堀河天皇の御代に始まったとされる京都の賀茂別雷(かもわけいかづち)神社(上賀茂神社)の競馬行事や、鎌倉の鶴岡八幡宮の例大祭で斎行される流鏑馬(やぶさめ)行事のように、颯爽(さっそう)と境内を馬が駆け抜ける豪壮なものも著名である。一方で、毎月粛々と斎行されている伊勢神宮(三重県)の神馬牽参(けんざん)という儀式もある。神宮では奈良時代に神馬が牽進(けんしん)されていたという記録があり(『続日本紀=しょくにほんぎ=』寳亀元年八月条)、平安時代の法令である『延喜大神宮式』にも、二月の祈年祭、六月・十二月の月次祭に一疋(いっぴき)ずつ、十月の神嘗祭に二疋、合計五疋の馬を皇大神宮(こうたいじんぐう)(内宮=ないくう)、豊受(とようけ)大神宮(外宮=げくう)に奉っていたという記録がある。この神馬牽参は現在、神宮では毎月一日、十一日、二十一日の午前八時に内宮、外宮の両宮において皇室より奉納された神馬一頭がそれぞれ菊の紋章のついた馬衣を身にまとい、御正宮にお参りし、頭を下げる。現在も宮域内には第二鳥居をくぐった左に内御厩(うちのみうまや)、裏参道口御橋の外に外御厩(そとのみうまや)があり、運が良ければ御厩に詰めている神馬に出会うことができる。もちろん、神馬として皇室から神宮に牽進されていることもあって人がこの馬に乗ることはできないが、御厩にいない時は獣医が駐在する御馬休憩所におり、どの神馬も丁重に取り扱われているため長寿である。この神馬は退落まで、月々の牽参の勤めを果たしている。

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