共生へ――現代に伝える神道のこころ(12) 写真・文 藤本頼生(國學院大學神道文化学部准教授)

東京・渋谷区の氷川神社に隣接する氷川の杜公園内には、世田谷八幡宮(世田谷区)と品川区大井の鹿嶋神社の相撲とともに「江戸郊外三大相撲」と称された金王相撲が行われた土俵跡が現存する

相撲の歴史と神道の関わりをひもとく 五穀豊穣を祈念し、豊凶を占う神事

毎年、新春の初詣が一段落つく頃になると、明治神宮の拝殿前で大相撲の横綱力士による「手数入(でずい)り」と呼ばれる奉納土俵入りが行われる。コロナ禍で昨年は中止されたものの、毎年一月五日から八日頃の、大相撲の初場所前に実施される行事で、本年は場所後の二月一日に行われた。テレビのニュース番組等で報道され、また、三月の大阪場所後の春巡業に際しても伊勢神宮や靖國神社で奉納されているので、読者にはご存じの方も多いだろう。

この土俵入りで力士が四股を踏むことは、大地を鎮めるための地固めの儀式とも考えられている。地を踏み天長地久を祈るとともに、地霊の邪神を踏み祓(はら)い鎮めることで土俵の安全を祈る。宗教的には大地の悪(あ)しき気を祓い、春先の大地を目覚めさせるという秋の豊作の予祝的な意義があるとも考えられてきた。相撲史の研究で知られる池田雅雄氏によれば、城や屋敷を建てる際に力士を招き、地鎮祭にあたる「地固め式」をした例が多くあるという(池田氏『大相撲史入門』、角川ソフィア文庫)。

相撲の起源は諸説ある。一説には『日本書紀』垂仁天皇七年七月の条に、天皇が遣(つか)わした野見宿禰(のみのすくね)と大和国の豪族であった當麻蹴速(たいまのけはや)の両者が「角力(すまひ)」で対戦したとの記述があり、この「角力」が相撲の起源と考えられている。それゆえ、野見宿禰と當麻蹴速は共に相撲の神とされている。野見宿禰を主祭神として祀(まつ)る神社は、小生の知る限り全国に二十六社ある。居宅跡と伝えられる地には、大野見宿禰命(おおのみのすくねのみこと)神社(鳥取市徳尾)がある。また、両国国技館に近接する野見宿禰神社(東京都墨田区亀沢)では、新たに横綱に昇進した力士が最初に開催される本場所(東京)前に土俵入りを行う習わしがある。

奈良時代には聖武天皇の御代に毎年、貴族たちを中心に七夕祭りの余興として相撲の天覧行事が催されていたが、徐々に七夕行事から分離された。八世紀から十二世紀にかけては、朝廷の年中行事として天皇臨席のもと、「相撲節会(すまいのせちえ)/相撲節」という儀式が行われていた。節会とは朝廷の節日(季節の変わり目に行うお祝いの行事/元旦、白馬=あおうま、踏歌=とうか、端午、相撲、重陽、豊明=とよのあかり=など)に行われるもので、中でも相撲は射礼(じゃらい)、騎射(うまゆみ)とともに重要行事である三度節(さんどせち)の一つとなっていた。その後、弘仁年間に宮廷の儀式を定めた『内裏式』の中に独立した儀式として記され、国家の安泰と五穀の豊穣(ほうじょう)を祈願するとともに、農作物の豊凶を占う国家的行事の一つとされた。

また、平安末期の記録によれば、八月に松尾大社、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)、九月には賀茂上下社などでも祭礼に併せて相撲節の様式に倣って、奉納相撲が催されたとある。その後、京都のみならず、常陸の鹿島神宮、信濃の諏訪大社、豊前の宇佐神宮など諸社の祭礼にも奉納されるようになった。

『吾妻鏡(あずまかがみ)』によれば、鎌倉時代に源頼朝が文治五(一一八九)年に相撲節会を小規模にした上覧相撲を鶴岡八幡宮で催すようになり、その後もしばしば同宮で催行されていた。相撲好きの頼朝が京都から相撲人(すまいびと)を呼び寄せたことが知られている。三代将軍の源実朝も相撲を好んで奨励しており、建永元(一二〇六)年には、家臣の結城朝光に上覧相撲の催行のため、相撲奉行を命じている。

その後、いったんは衰退するが、戦国時代になると社寺の建立や修築、橋の架け替えなどの資金を集めるため、相撲を催して見物人に寄進を勧める勧進相撲が行われるようになり、江戸時代までに京都や大阪を中心に発達した。それ以後、徐々に目的そのものが勧進の意味から離れ、営利的な興行を行う職業相撲へと発展することとなった。

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