共生へ――現代に伝える神道のこころ(6) 写真・文 藤本頼生(國學院大學神道文化学部准教授)
少子高齢化の進行と過疎化に伴い、地域の宗教施設が直面する課題
現代の日本は少子高齢化が進行しており、同時に地方では過疎化の問題が深刻化している。厚生労働省が毎年九月に発表する人口動態調査の直近の概況では、一昨年の新規出生数が前年比で5万3161人減少して、過去最少の86万5239人であったという報道がなされた。小生は大学教員でもあるので、後に子供たちを学生として受け入れることになる大学側の立場としては、特にコロナ禍の中にあって昨年一年間の新規出生数が今年の発表から、今後どのように変化してゆくのか、18歳人口の増減とともに気になる話でもある。
出生数が現在のような減少傾向にあることは、死亡数の増加とともに、さらなる少子高齢化、過疎化が続いていくことを意味する。少子高齢化が続けば、それぞれの自治体で税収の減少を招き、地域社会においても経済のみならず、行政サービスの維持など市民生活に大きな影響を及ぼすことは言うまでもない。
宗教法人と少子高齢化の問題について、宗教学者の石井研士氏が2015年に「限界神社」なる造語を提示している。今後、全国各地の宗教法人の維持・運営が危うくなる状況を、法人数と人口データなどを比較分析し、全国の約四割近くの神社が消滅する可能性があると指摘した(なお、石井氏は寺院数についても分析している)。
近年では、石井氏の教え子にあたる冬月律氏が『過疎地神社の研究』(北海道大学出版会)を発刊。高知県内の神社を対象に実態調査を行い、過疎化の実情と地域神社との関係性を明らかにした。そこで今回は、地域のお宮、神社が無くなるということが、一体、人々にどんな影響をもたらすのかという点について述べてみたい。
神社が無くなるということについて、歴史的に見れば、江戸時代に岡山藩で行われた「寄宮(よせみや)」をはじめ、会津藩や水戸藩においても神社や寺院の整理が行われたことが知られている。特に岡山藩の「寄宮」は、藩主・池田光政の時代に、藩内の小祠(しょうし)など一万五百二十四社を廃して、七十一社に合祀(ごうし)するという極端な宗教政策であった。光政の遺志を継いだ次代藩主の池田綱政の時代には、その七十一社の寄宮のうち、六十六社を「大多羅(おおだら)寄宮」と称する一社に合祀。明治維新まで、この寄宮での祭祀が藩の庇護(ひご)のもとで行われていた。しかし、明治八(一八七五)年にはその寄宮自体も近隣の布勢神社に合祀され、廃社となった。
注目すべきは、明治末期から大正初期にかけて政府主導の行政施策により、全国的にしかも短期間で実施された神社整理施策である。整理前の明治三八(一九〇五)年には、十九万二千三百六十六社あった神社数が、整理が終息した後の大正六(一九一七)年には十一万七千七百七十八社まで減少。府県によって強弱差異はあるものの、全体で七万四千五百八十八社も減少し、特にモデル県とされた三重県では、神社の合併率が90%を超えるという結果をもたらしたのであった。