利害を超えて現代と向き合う――宗教の役割(53) 文・小林正弥(千葉大学大学院教授)

画・国井 節

オリンピック突入による犠牲

東京では、3回目の緊急事態宣言解除の際に懸念されていた通りに、新型コロナウイルスの感染者が再び急増し、7月12日から4回目の緊急事態宣言が発令された。そうした状況にもかかわらず、多くの人々が反対署名などで中止を求めた東京オリンピックが始まった。東京では感染者が一日1000人を超える第5波を迎えており、五輪によって死者が増えることが危惧される。すでに選手村などで選手や関係者に次々と感染者が見つかっている。さらに開会式直前に、過去の言動が問題となって、楽曲担当のミュージシャンが辞任し、開閉会式のショーディレクターが解任された。海外メディア(USAトゥデイ)から「カオス」と評された通りの大混乱状況だ。

私は大学などで繰り返しコロナ問題をめぐるジレンマを学生たちに議論させてきた。その中心は、「経済重視か、感染症対策か」だった。哲学的議論の常として、双方の立場に一応の論理があるから、その間で理性的な議論が成り立った。ところが今は、首都圏で無観客開催になったため、訪日外国人客や消費の増加効果はほとんどなくなり、西村康稔経済再生担当相すら「全く経済効果は期待していない」(7月9日)と述べるほどである。よって、もはや経済重視という論理すら成り立たなくなった。理念も目的もなしに人々を死なせかねないイベントへと突入したわけだ。

「狂気」と評する人がいるように、ここには第二次世界大戦を想起せざるを得ない。理性的に考えれば、アメリカに敗北必至であるにもかかわらず開戦し、敗色が明らかになっても、日本は「バンザイ突撃」や特攻隊などによって、多くの尊い人命を犠牲にした。戦後はその反省から始まったにもかかわらず、同種の間違いを繰り返しつつあるわけだ。「コロナ敗戦」という言葉の通りに(第48回)、終わってみれば死屍累々(ししるいるい)となりかねない。

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