共生へ――現代に伝える神道のこころ(4) 写真・文 藤本頼生(國學院大學神道文化学部准教授)

国内外から多くの人が参拝に訪れる明治神宮(東京・渋谷区)。明治天皇と皇后の崩御後、両陛下の御神霊を祀る神社として、大正9(1920)年に創建された

神道を暮らしに活かすため いま一度知りたい「神社の役割」

前回は『日本書紀』の三大神勅(しんちょく)を中心に神話の指し示す考え方について述べた。読者の中には、神話の世界観もいいが、日本の神々や神社の違いについて知りたいと思う方もいると思う。そこで今回は、神道の教えを日々の暮らしに活かすためにも、「神社」というものの理解とともに、神社に祀(まつ)られる神々の分類について述べたい。

「神社」を理解する場合、今では人々が当たり前のように使用している「神社」という用語が、いつ頃から用いられてきたかということに着目する必要があろう。この点については、櫻井治男氏が『地域神社の宗教学』(弘文堂)や『神道の多面的価値―地域神社と宗教研究・福祉文化―』(皇學館大学出版部)などの著書で明らかにしているところでもあるが、「神社」という用語が一般的に用いられるようになるのは、明治維新以後、神社制度が整備される過程で、「神社」の公簿である『神社明細帳』が作成される段階である。近代においては、福岡県の太宰府天満宮が太宰府神社、大阪府の住吉大社が住吉神社、京都府の松尾大社が松尾神社、静岡県の久能山東照宮と栃木県の日光東照宮がどちらも東照宮というように、一様式化されたのである。また、ムラの小祠(しょうし)などでは、山の神を祀る社(やしろ)が「山」神社となっていくような過程も見られた。こうした改正が「神社」の呼称を一般化するきっかけの一つとなったと考えられている。

『神社明細帳』の作成過程においては、現在の神社の概念を根本から覆すような社の形式をうかがい知ることができる。例えば、岡山県北部の真庭市にある下諏訪神社のように、明治七年の教部省の指令に基づく神社調査の報告書にあたる『神社取調書上帳』には、社名や祭神名、由緒などとともに、境内に木製の御柱(おんばしら)一本と囲いにあたる木製の瑞垣(みずがき)のみの絵図面が記されている。

『神社取調書上帳』に記された下諏訪神社(岡山・真庭市)の絵図面の一部。同社は現在、社殿が建てられているが、明治期までは御柱と瑞垣で神社の形式を成していた ※クリックして拡大

先に述べたことは、ほぼ全ての社が近代において「神社」と呼称されていたことの善悪を問うものではない。ただ、例えば地域所在の住吉神社や春日神社、稲荷神社のことを「住吉っさん」「お春日さん」「お稲荷さん」などと呼び、伊勢神宮でも地元の人々は皇大神宮、豊受大神宮を「内宮(ないくう)さん」「外宮(げくう)さん」と呼ぶことから見ても、地域社会と神社との関係性を理解する場合に、それぞれの社がどのように呼称されているかは大事な点である。

さらに「お宮」という言葉も同じく、人々と神社との関係性を知る上で、キーワードになると考えられる。神社と呼ばれる社はあまたあれど、各々の地域に住まう人々にとって「お宮」と感じる、分かり合える社がどこであるかは、地域社会における神社の役割や在り方を考えるためには重要とされている。

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