清水寺に伝わる「おもてなし」の心(4) 写真・文 大西英玄(北法相宗音羽山清水寺執事補)

利他行とは「する・しない」ではなく果たすべき責任

「生きていくとは苦難と共に歩むこと」。私の前に佼成新聞で寄稿されていた松原正樹先生は説かれていた。我々の生活は苦しみが前提であるというのは、仏教の原点ともいえる解釈であり、それは、自身の都合や想定通りに物事が運ばない、小難大難と常に隣り合わせであることを自覚すべきと教えて頂いている。だからこそ互いに支え合っていかなければ、我々は「生きる」という「行」を継続していくことすらかなわない。

つまり、利他行とは「する・しない」を選択するものではなく、生きていくための必須条件という認識のもと、誰もが果たすべき責任と心得るべきではなかろうか。

こう理解するならば、迎えるべき相手は私に「祈り」の機会をもたらし、「行」の場を与えてくれるだけでなく、私のいのちそのものを生かしてくれてさえもいるのだ。こんなにも有り難いことがあるだろうか。

「同席対面五百生(ごひゃくしょう)」。既に多くの読者が、一度は聞いたことのある言葉だろう。人との出会いは、五百回生まれ変わる前からのさまざまな導きの結果であり、それほど尊いものという意味が一般的だが、実は、自身の出会いの尊さを知るだけでは半分の解釈にすぎない。もう半分は、今ここから五百生先に良縁が育まれるよう互いに尽力していく、そんな未来への責任を自覚する重要性が込められていると理解している。

この出会う対象である「人」とは、そのまま「仏」と置き換えることができると思う。自らの「祈り」や「行」の縁を導いてくれ、さらに私のいのちそのものを生かしてくれる仏様との出会いは、我々が想像しているよりはるかに尊い。迎える相手は仏様――。こんな心でありたい。

プロフィル

おおにし・えいげん 1978年、京都府生まれ。2000年に関西大学社会学部卒業後、米国に留学。高野山での加行を経て、05年に清水寺に帰山し、僧職を勤める。13年に成就院住職に就任。14年に世界宗教者平和会議(WCRP/RfP)日本委員会青年部会幹事、19年に同部会副幹事長に就いた。現在、清水寺の執事補として、山内外の法務を勤める。日々の仏事とともに、大衆庶民信仰の入口を構築、観光客と仏様の橋渡しを命題とし、開かれた寺としての可能性を模索している。

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