おもかげを探して どんど晴れ(15) 文・画 笹原留似子(おもかげ復元師)

東日本大震災の発生直後から、ご遺体を復元するボランティアを行いました。その時、祖父母を捜している小学生の姉弟に出会いました。この子たちが住む町は津波が幾度となく襲い、壊滅しました。祖父母が昔話の中で語ってくれていた通り、地震の後に発生する津波を予測して、姉は弟の手を引き山の中へ逃げ、寒くて真っ暗闇の中で一晩明かしたそうです。いつも町を照らしていた街灯は消え、普段聞こえる音は一切聞こえず、ただ何度も押し寄せる津波の音と、町が火事になり焼ける音、爆発音などが町のあちこちから聞こえてきたそうです。

翌早朝、おそらくわが子を探し回って泥だらけになった母親は、山の中で姉弟と再会します。近くに避難所ができたと聞き、そのまま避難所に向かっている時に、近くで疲れ切った父と再会しました。しかし、祖父母には会えず、両親が祖父母の安否の確認に出掛けて行くという毎日が続いていたそうです。

彼らは避難所で過ごすことになるのですが、空腹に襲われて眠ることもできない状況だったと話してくれました。避難所に来て、姉は最初にもらったピンポン球くらいの大きさのおにぎりを弟にあげ、仕方がないので、津波が引いた後のがれきの中を歩き回り、食べ物を探したそうです。そこで見つけた数個のカップラーメンは、あの大津波の中でも無傷でしたが、お湯は手に入らないので硬いラーメンを、誰にも見つからない場所で弟と一緒に食べて飢えをしのいだのでした。

なんとか食べ物を探し当てはしたけれど、姉弟は、そこで見た光景に心を痛めていました。私が死の専門職であることを両親から聞いた二人は、「がれきの中で死んだ人をたくさん見た。その記憶がつらい」と私に相談しました。

「人はみんな、時間の経過とともに腐敗します。再会を希望するなら元に戻すのが、私のお仕事ね。がれきの中で出会った亡くなった人たちは、あなた方を見守ってくれていた近所の人たちかもしれないよ」。私はそう話しました。

二人と1時間近く話したでしょうか。いい笑顔でうなずいたあの時から、小学生だった姉は高校生、弟は中学生になりました。今でもよく連絡をくれ、何かしらの壁に当たると会いに来てくれます。

今、何が起きているのか分からないほどの大きなショックを受けているときは、大人も子どももお腹が空きません。少しずつ様子が見え始めたとき、お腹が空くのかもしれません。人により、お腹が空くタイミングが違った震災初期。多くの人たちが町の光景を目の当たりにしても、何が起きたのか、全体像が全く見えない、分からない、震災初期はそのような状況でした。

※タイトルにある「どんど晴れ」とは、どんなに空に暗雲が立ち込めても、そこには必ず一筋の光がさし、その光が少しずつ広がって、やがて真っ青な晴天になるんだよ、という意味です

プロフィル

ささはら・るいこ 1972年、北海道生まれ。株式会社「桜」代表取締役。これまでに復元納棺師として多くの人々を見送ってきた。全国で「いのちの授業」や技術講習会の講師としても活躍中。「シチズン・オブ・ザ・イヤー」、社会貢献支援財団社会貢献賞などを受賞。著書に『おもかげ復元師』『おもかげ復元師の震災絵日記』(共にポプラ社)など。