おもかげを探して どんど晴れ(23) 文・画 笹原留似子(おもかげ復元師)

画・笹原 留似子

共助の民話――哀れで悲しい物語

岩手県には、昔から伝わる「河童(かっぱ)」や「座敷わらし」の話があります。「河童」や「座敷わらし」は、実は飢餓で苦しむ時代に生まれた子どもたちのことだといわれています。病弱であったり、働き手にならなかったりした赤子や幼児は、口減らしのために、存在が無かったことにされていました。昔に起きた悲しい物語です。

現代は、子どもを保護する児童養護施設などがありますが、当時はありませんでした。選択肢もなく、子を殺(あや)めなければならなかった母親たちは気が狂い、通常の生活が送れなくなった人も多かったと言い伝えられています。民俗学の一説によると、幽霊は自分が姿を見せたい人にだけ姿を見せ、妖怪は誰の前にも姿を現すと言われています。弊社にも警備会社のカメラに写る座敷わらしが3人いますが、この子たちは自分が姿を見せたい人にだけ姿を見せています。時代と共に妖怪と格上げされても、実態は幽霊の素質を持ったままなのかもしれません。

災害が続き、日照りが続き、とうとう作物が取れず、食うに困っていた昔に、河童や座敷わらしと同じく悲しい物語が生まれました。それが、「姥(うば)捨て山」の物語です。

食い扶持(ぶち)を減らすため、年老いた父や母を背負い、山道を上がり、泣く泣く山の中へ降ろし、父母を山へ捨てるのです。

その場所には、同じ境遇でその場に捨てられた多くの年寄りの骨が散乱していたと伝えられています。父や母は「振り向くな!」と叫び、子は泣きながら走って山を下り、親は我が子の姿が見えなくなるまで目頭を押さえて見送ったと言われています。

実際、山の上では何が起こっていたのかというと、人生経験が豊富だったことから、動けない年寄りは里から山に上がって来た人々の人生相談に乗り、動ける年寄りは里から声が掛かり、山を下りて畑仕事を手伝っていたということです。どちらもお礼に、食べる物を分けてもらっていたようです。死に際には、同じ境遇の年寄り仲間に看取られ、息を引き取ったとも伝えられています。切なくなるほどの厳しい環境の中だからこそ、人々は思いやりでつながり、一度は捨てられた年寄りが社会をしっかり支えていた共助があったのです。

昔の人が体験した切ない状況はなくなりましたが、悲しい出来事は、現代でもあります。生きていれば、どうしようもないことが起こります。けれども人は、生きる知恵と底力を持っていて、「よし、生きるぞ!」と決意したその時に、その底力が招くものが「運」なのかもしれません。

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