法華経のこころ(8)

人間の生き方の究極の境地が示された法華三部経――。経典に記された一節を挙げ、それにまつわる社会事象や、それぞれの心に思い浮かんだ体験、気づきを紹介する。今回は、「方便品」と「信解品」から。

我が法は妙にして思い難し(方便品)

「わたしのこの教えは、あまりにも微妙なものであって、頭で考えてみても理解しがたいのです」

大学卒業後、スポーツクラブにインストラクターとして就職した。都内のある店舗で、スイミングと体操(共に幼児から選手までの全コース)を受け持たされた。学校ではコーチ学、運動生理学、スポーツ心理学など専門分野を学んできたし、実技にも自信があった。家では連日夜遅くまで、机の上に山積みされた種々の指導書や論文書をひっかきまわし、翌日の指導カリキュラムを作成した。

就職して1カ月が過ぎたころ、急に自分の指導方法に手落ちがあるのではないかと不安になった。私は先輩のインストラクターに尋ねてみた。「どんな指導書を持っているのですか。良い参考書はないでしょうか」。すると先輩は、厳しい口調で言った。「おまえはひと月も何をしてきたんだ。プールにいるのは、カボチャじゃないんだぞ」。さらに続けて、「オレも初めは気がつかなかったんだけどな」と言った。あとの言葉は優しかった。

当初、私にはそれが何のことだかわからなかった。だがその後、指導を重ねていくうちにふと気がついた。子供に教えられながら体験を積むことが何よりの良書だということが。子供たちこそ最も優れた参考書だったのである。
(S)

【次ページ:堪任する所に随って(信解品)】