法華経のこころ(7)

人間の生き方の究極の境地が示された法華三部経――。経典に記された一節を挙げ、それにまつわる社会事象や、それぞれの心に思い浮かんだ体験、気づきを紹介する。今回は、「普賢菩薩勧発品」「序品」から。

諸の如来の手(みて)をもって、其の頭を摩(な)でたもうを為(え)ん(普賢菩薩勧発品)

「法華経を受持し、その内容をよく理解し、教えの通り修行し、善行を積む者は、普賢菩薩と同様の行を行っているのと同じで、仏さまのみ手で頭をなでて頂くに値する人と言えましょう」

取材で各教会を訪れると、社会の片隅で人さまのために尽くしている方に出会う。社会福祉講座を修了し、現在、障害者福祉に献身している人、ホームヘルパーをしている若い会員さん、身寄りのない子供を引き取り、里親になっている70代のご夫婦、世間の脚光を浴びることなく、地道に菩薩行に励んでいる人たちだ。

先日、ある女性の会員さんに会った時、「手がこんなに荒れちゃった」と両手をかざして見せてくれた。ぶっきらぼうな口調とは逆に、その顔は輝いて見えた。前日、老人ホームのボランティアとしてオムツ洗い、繕い物、入浴の手伝いをしてきたと言う。

その会員さんの信条は『一日一善』だそうだ。就寝する前、「きょうは何かいいことしたかしら」と振り返る。何もしていないと落ち着かない。いったん就寝に入ったのに、やおら起き上がり外に出て、道路に落ちているゴミやタバコの吸い殻を拾う。「自己満足かしら」と会員さんははにかんだ。

自己満足でもかまわない。お釈迦さまは善いことをした生徒をほめる小学校の先生のように、きっと優しく頭をなでてくれているだろう。
(H)

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